「消された王権 尾張氏の正体」 2025年2月28日 吉澤有介

関 裕二著、PHP新書、2024年8月刊  著者は、おなじみの歴史作家です。1959年千葉県生まれ、在野の日本古代史の研究家、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所で、文献史学、考古学、民俗学などの学際的な研究・執筆を続けています。近著に「縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける」(PHP文庫)、「縄文文明と中国文明」、「海洋の日本古代史」、「女系で読み解く天皇の古代史」、「日本・中国・朝鮮古代史の謎を解く」(いずれもPHP新書)など多数があります。
日本の歴史の転換期は、いつも「東」から始まっていました。ヤマトは、3世紀から4世紀にかけて纏向に建国されましたが、その中心勢力は東海地方から出た尾張氏でした。
東海の尾張氏は、6世紀にも、越から継体天皇を迎えて推戴し、7世紀の「壬申の乱」では、東に逃れた大海人皇子を助けて近江朝を破り、天武朝の成立に大活躍をしました。
その大豪族の尾張氏が、「日本書紀」では、殆ど出てきません。天武の亡き後、「書紀」の編纂を主導した藤原不比等が、明らかに隠匿したのです。父鎌足の正義を証明するために、親蘇我派であった天武派を深く憎んで、徹底して排除しました。しかし、各氏族の系譜を記すうち、隠しきれずにその一端が現れていました。尾張氏の遠祖は、ニニギの孫、天皇家の出でした。しかも「先代旧事本紀」では、物部氏と同族でした。丹後の籠神社の系図にもあります。尾張氏は、天皇家にも后妃を出し、瀬戸内の物部氏と並んで、日本海から葛城、東海にかけての大勢力だったのです。前方後方墳の独特の文化がありました。
「書紀」は、ヤマト建国の神話をも改竄しました。スサノオは、蘇我氏の遠祖でした。神武東征も、史実を覆い隠しています。近年の考古学の成果は、ヤマトに集まった人びとが、北部九州に流れ込んでいたことを明らかにしました。東が西に向かったのです。
著者はここで大胆な仮説を立てました。初代神武は15代応神と同一人物ではないか。
ヤマトの王家で、九州に親征したのは、⒓代景行、⒕代仲哀だけで、いずれも「タラシヒコ」と呼ばれ、東海系と見られます。仲哀の后妃・神功皇后は、9代開化の末裔の息長氏で、これも東の勢力です。仲哀と皇后は、二手に分かれて北部九州を攻め、山門の女王で、ヤマトの女王を騙って魏に朝貢していた卑弥呼を殺しました。仲哀は、九州の王になって熊襲を討つと宣言すると、神の怒りに触れて変死しました。皇后は、卑弥呼を殺したことを魏に隠し、宗女の台与(トヨ)に成りすまして、仲哀の死後に住吉大神(武内宿禰?)と交わり、応神を生みました。しかしヤマトの裏切りで、南九州に逼塞します。
そのころ物部系で吉備のニギハヤヒは、ヤマトに入り、先住のナガスネヒコの妹を娶り、崇神となりました。しかし、疫病に悩まされ、日本海系の大物主神の祟りと恐れて、その子?太田田根子(応神)を呼び寄せます。応神は東のヤマトを目指しました。その道程が、神武東征とそっくりでした。先住のナガスネヒコは東海系でしたが、応神を拒否して猛然と戦いました。しかし味方に殺され、応神はヤマトに入りました。神功皇后には、仲哀との間にも皇子がいて、後に皇統が絶えたとき、5世の孫が呼ばれましたが、辞退して、応神の5世の孫の継体が選ばれました。皇統は、母系で再興されたのです。「了」

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