「孝 経」—儒教の歴史、二千年の旅—2025年3月10日 吉澤有介

橋本秀美著、岩波新書、2025年1月刊 著者は、1966年、福島県生まれ、東京大学文学部中国哲学専攻卒、北京大学古典文献専攻博士。東京大学東洋文化研究所助教授。北京大学歴史系教授、青山学院大学教授を経て、現在は二松学舎大学教授です。著書には、「論語—心の鏡」(岩波書店)、「義疏学衰亡史論」(白峰社)、「文献学読書記」(共著、三聯書店)などがあります。
東アジアでは、「孝経」は、「論語」とともに、最も多くの人々に読まれた儒教の経典でした。全体で千八百字程度、原稿用紙で五枚に満たない極く短い経典です。子供の親に対する態度に関わる内容でもあったので、識字教育にも向いていました。
「論語」が、孔子とその弟子たちとの言行録で、一貫した明確な主張がなく、内容も断章的でしたが、「孝経」は、孔子が弟子に直接講義した内容で、明確な倫理道徳を説いた経典でした。江戸時代では、最も人気が高く、寺子屋では必修の教材だったのです。それは有名な一句、「身体髪膚これを父母に受く—」で始まっていました。
しかし、「孝経」の内容には、親孝行の話はこれだけで、大半は「順」を核心概念として、統治者が、天下の人々の気持ちに逆らわない、それによって人々も統治者に順う。人の心の自然にうまく合わせることで社会が安定し、天下太平が実現すると説いていました。またさらに踏み込んで、「上の者が下の者を厚遇してやれば、下の者は上の者に厚く報いてくれる。待遇が悪いのに、しっかり働けとか、子供に大切にしてもらうのは、土台無理な話だ。君主と民衆の関係も同じだ」という注釈もありました。つまり下の者に「順」を強制するのではなく、統治者のための経典だったのです。
儒教の経典は、すべて漢字で書かれているので、意味の取り方も多様になります。「孝経」は古来、さまざまに注釈されてきました。漢代には歴代皇帝の必読書でしたが、その後の戦乱で、宋代には殆ど散逸していました。しかし、奈良時代に日本に伝わり、平安から鎌倉期にかけて、清原氏によって大切に読み継がれてきました。後陽成天皇の文禄二年(1593)には、日本最初の木版印刷として広く読まれ、享保十六年には、徳川幕府は清朝に逆輸出して、清朝の学者たちに大きな影響を与えました。
「孝経」の一部を挙げてみましょう。開宗明義章第一、孔子は弟子の曾氏に向かって、古代の聖王は、「至徳」と「要道」で天下を治め、民衆は互いに争わず、上下の間に恨みもなかったことを知っているかと問い、例の「孝」の始めを説きました。「孝」は親に仕えるに始まり、君主に仕えるのが中間で、身を建てることで終わるのだと。
広要道第十二、子曰く、人々に親愛の気持を広めるには、「孝」が最適だ。社会秩序を教えるには、「悌」が相応しい。君主を安定させ、民衆を統治してゆくには、「礼」が一番良い。「礼」は「敬」に尽きる。人に敬意を払えば喜ばれる。これ肝要なのだ。
「孝経は、明治・大正期でも人気がありました。敗戦後、封建道徳と見られて疎外されてはいますが、新しい発見もある貴重な経典です。再興を期待しましょう。「了」

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