「ヒグマとの戦い」—ある老狩人の手記—2024年5月⒕日 吉澤有介

西村武重著、ヤマケイ豊後、2021年7月刊  著者は、1892年(明治25)香川県に生まれ、4歳のとき父と北海道札幌市に移住し、1916年(大正5)に養老牛温泉を開発、永年にわたり鳥獣の狩猟に専念しました。1972年(昭和47)に勲六等旭日章を受章。1983年(昭和58)死去しました。著書に、「北海の狩猟者」(山と渓谷社)、「秘境知床原野とヤマベ」(釣の友社)などがあります。
著者は、石狩郡に住む狩猟家の叔父に憧れ、徴兵検査を終えた21歳のときに狩猟免許を受けて狩人になりました。未開の森林渓谷で鳥獣を追い、西別川のアイヌ集落で、酋長の榛幸太郎と親しくなって、ヒグマ撃ちなどの秘法を教わりました。著者の狩猟は酋長幸太郎の直伝でした。本書は、大正から昭和にかけての、著者の若き時代の思い出です。
風連湖に注ぐ風連川沿いの密林には、ヒグマがたくさん棲んでいました。そのヒグマが近くの牧場の牛馬を襲い、毎年大きな被害を生じていました。その牧場に、長吉という著者の友人がいました。ある夏、放牧していた農耕馬がヒグマに襲われて、無残な姿で発見されました。長吉は仲間と村田銃を携えてヒグマ退治に出かけましたが、彼らは猟師でなかったので、逆にヒグマに襲われて、先頭にいた長吉は絶命しました。捜索隊がヒグマを撃って仇討ちしましたが、ヒグマの習性を知らなかったために起きた悲劇だったのです。
この地域のヒグマは獰猛で、深い薮の中で人間を待ち伏せ、一気に飛びかかってきます。撃たれてもひるまず、逃げ足も速い。熟達した猟師にとっても命がけの闘いでした。
アイヌの酋長幸太郎は、16歳のときから著者と出会った大正6年までに、453頭を撃ち取ったといいます。ヒグマの習性を知り尽くしているので、猟犬数匹との連携プレイで仕留めるのです。根室、釧路、北見の国境の原始林を舞台に、ヒグマを追っていました。
著者は根室の原野を、愛銃ウインチェスター15連で狩に明け暮れていました。大正7年⒓月のある日、静かな林間でヒグマの気配を感じました。待ち構えていると、15m先に突然大ヒグマが現れました。著者はその頭に一発撃ちこみました。急斜面を落ちてゆくので、覗き込むと何とヒグマがまた上がってきました。咄嗟に近距離で撃ちこむと立ち上がって咆哮し、横倒しに倒れました。確かめようとしたら、またヒグマが登ってきたのです。恐怖にかられて無我夢中で銃を連射しました。手応えはありましたが、暗いので一旦引き上げて、翌日雪の中を探してみると、驚いたことにヒグマが3頭も倒れていました。それぞれが別のヒグマだったのです。そこへ突然2人の猟師が現れました。やられたと悔しがるので話を聞くと、旭川の猟師で、北見藻岩山からこの3頭のヒグマを一週間も追ってきたのだといいます。気の毒なので2頭を分け与えたら、たいへんに喜ばれました。
著者は、養老牛温泉にある牧場を守るためにも、ヒグマとの闘いを続けました。千島のエトロフ島の宿でヒグマに襲われ、間一髪で撃ち取ったこともあります。撃ったヒグマは、仲間と解体処理しますが、アイヌは、部落のメノコが総出で始末していました。彼女たちは、丸木舟を巧みに操ります。著者は、メノコに美人が多いことに驚いていました。
解説は、山と狩猟の作家・服部文祥で、狩猟の真髄を語っています。好著でした。「了」

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