「古事記の禁忌(タブー)・天皇の正体」  2024年4月21日 吉澤有介

関 祐二著、新潮文庫、平成25(2013)年1月刊
著者は1959年千葉県柏市生まれの歴史作家です。仏教美術に魅了されて、奈良に通いつめ、独学で古代史を学びました。「聖徳太子は蘇我入鹿である」でデビュー。主な著書に「藤原氏の正体」、「蘇我氏の正体」、「物部氏の正体」(新潮文庫)など多数があります。
古事記は謎に満ちています。本居宣長による再評価で「神典」とされ、明治政府が皇国史観に利用して注目されましたが、実際には、江戸時代までは埋もれた文書でした、しかも、古事記を素直に読めば、内容は矛盾だらけです。序文に、日本書紀と同じく天武天皇の発案によるとあり、編纂されたのは、日本書紀と8年の差しかありません。ところが外交問題について、まるで反対の主張をしています。古事記は「親新羅」、日本書紀は「新百済」なのです。当時、最大の問題であった新羅と百済との関係ですから、不自然極まりない。さらに古事記は歴史記述を途中でやめています。序文、神話、神武東征と続いて、歴代天皇の事績が7世紀前半の第33代推古女帝まで語られてはいますが、歴史の記述は、5世紀末の第23代顕宗天皇で終わり、なぜかその後は王家の系統しか書かれていません。
一方の日本書紀によれば、顕宗の後は兄の仁賢に、さらにその子の第25代武烈天皇の酒池肉林の乱行の末に皇統が絶え、越の国から応神天皇五世の孫、継体天皇が出現しました。200年にわたる激動の時代が、古事記では一切語られていないのです。なぜ顕宗で打ち切ったのか。顕宗、仁賢の兄弟は、雄略天皇に父安康天皇を殺され、秦氏の支援で播磨に隠れ、零落していたところを偶然に発見されて、皇統を継ぎました。その経過は妙に詳細に記されています。古事記の編者は、必死に何かを伝えようとしていたのです。
日本書紀は、天智、天武の皇統の正当性を主張するものでした。そのためには蘇我氏が極悪人でなければならない。聖徳太子をでっち上げ、乙巳の変を正当化しました。しかし編者の藤原不比等は、父鎌足の祖先を載せていません。出自が怪しいからです。著者は、鎌足が百済の王子だったとみています。蘇我氏の祖先も載せていませんが、こちらはあまりにも高貴な出で、書けなかったのでしょう。出雲以来の名家で、ヤマト国家の建設に大功があったのです。不比等は、ヤマト建国の歴史を知っていたのに記録しなかった。
蘇我氏は渡来人をとりこみ、当初は百済に頼っていましたが、政権を確立すると、新羅を含めた全方位外交に転じました。百済はこれを深く恨みました。蘇我氏を討ち倒せ。鎌足は中大兄を唆し、天智が政権を握ると、無謀な百済救援に走り、白村江で大敗します。
天智とそりが合わなかった弟の天武は、古事記のように新羅寄りでした。しかし天武没後に、持統と不比等のコンビが百済寄りを復活させ、古事記は無用の書とされたのです。
古事記には、古来、偽書説が絶えません。しかし、古事記の編者には秦氏の影が、色濃く表れています。秦氏は先行していた新羅系渡来人なのに、次第に凋落してゆきました。播磨に地盤があり、顕宗・仁賢の皇統復帰に大きく貢献しました。継体の擁立を超える大功でしたが、天皇家に評価されませんでした。古事記は天皇家に対する恨みの書だったのです。秦氏の世阿弥は天皇を鬼とみていました。著者はその正体に迫っています。「了」

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