「日本人の神」入門—神道の歴史を読み解く—2024年3月11日 吉澤有介

島田裕已著、講談社新書、2016年5月刊  著者は、1953年東京生まれの宗教学者です。東京大学文学部宗教学科卒、同大学院人文科学研究科博士課程で宗教学を専攻しました。東京女子大学非常勤講師。著書に「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」(幻冬舎新書)など多数があります。
「神を祀る」は辞書に、「神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉る」とあります。つまり祀る主体は人間で、私たちが特定の場所に神を祀っています。日本の神は、神社などのある場所に祀られていて、私たちはそこにお参りにゆきます。そのときだけ神の存在を感じますが、日常の場で神を意識することはまずありません。しかし、キリスト教などの一神教では、神は常に遍在しており、教会などもありますが、信徒はどの場所にいても神を意識して、祈りを捧げることができます。そこには根本的な違いがありました。
日本の神の原初のかたちは、山や大きな岩をご神体として祀るもので、社殿などは一切ありませんでした。奈良の大神神社(三輪神社)は、現在でも拝殿はあっても本殿はなく、拝殿の奥にある標高467mの三輪山がご神体とされています。その拝殿も鎌倉時代からで、それ以前にはなかったのです。沖ノ島には古い祭祀の形が残っていました。磐座とされる巨岩があって、4世紀後半から5世紀にかけては岩の上で、7世紀にかけては岩陰で、その後は露天で、様々な品を供えて祭祀を行っていました。豪華な供物から、ヤマト朝廷が主催したとみられますが、それは秘密裡に行われ、「記紀」には出てきません。しかし遺跡の状況は、まさに古事記にある「誓約(うけい)」の情景を示していました。
その皇祖とされるアマテラスを祀る伊勢神宮も不可解です。代々の天皇は参拝していません。アマテラスは後に仲哀をも殺した恐ろしい神でした。伊勢に移して鎮めたのです。
出雲大社も謎に包まれています。社殿のなかった古代に、初めは32丈、のちに16丈(48m)もの高さの神殿であったとされ、近年その柱が発掘されて、ほぼ確認されました。日本書紀によれば、祭神は大国主命(オオムナチ)で、国譲りして鎮められたとあり、その祭祀を担った神が天穂日命(アメノホヒ)で、出雲国造の始祖とされています。
つまり出雲国造の祖先は神で、今に続く天皇と同じです。しかし古代の出雲国造は、出雲風土記によると、初めは熊野大社を祀っていました。平安初期までは杵築大社(出雲大社)でなかったのです。また現在に至る国造の代替りの儀式では、自らが神として神火を受け継ぎ熊野大社に祈り、天皇の大嘗祭に似ています。さらに出雲大社は祭神までも変わっていました。当初のオオムナチが、9世紀から17世紀まで、なぜかスサノオになっていたのです。本殿の内部構造や神座の位置も極めて異常です。謎に満ちていました。
神社で最も多いのは八幡神社です。全国に7817社もありました。その元締めは宇佐八幡宮で、「記紀」には全く出てこない渡来の神です。それが忽然と歴史の表舞台に登場します。聖武天皇の東大寺の大仏建立に、大きく貢献して朝廷の信仰を集め、称徳天皇は神託を、伊勢を差し置いて宇佐八幡に頼りました。石清水八幡宮に勧請され、「皇大神」と呼ばれます。後に神仏習合で八幡大菩薩になりましたが、すべてが大きな謎でした。「了」

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