「怨霊と縄文」梅原猛著 2020年4月7日吉澤有介

 朝日出版社、197910月刊      

 本書は、著者(19252019)の古代学研究が辿ってきた探索のすべてを振り返って、さらに困難な未来に向かう意志を存分に語った貴重な一書です。未来のテーマを表題とした座談で、記紀神話の謎、聖徳太子の光と影、柿本人麻呂の愛と死を中心に展開していました。

 著者は西欧の哲学を学びましたが、その哲学の研究者ではなく、みずからが哲学者であるとして、既成の一切の権威、学説を疑い、新たな認識の体系をつくることを目指しました。そこで出会ったのが古事記と日本書紀だったのです。45才、梅原古代学のはじまりでした。

 読んでみると、これまでの定説であった本居宣長や契沖・真淵も、津田左右吉の新説も、戦後の歴史家の見方もみなおかしい。日本神話のクライマックスは天孫降臨です。皇室の尊厳といいながら、それまでは男のイザナギが善と光を代表し、女のイザナミが悪と闇を代表していたのに、一代あとの女アマテラスは逆に善と光を、男のスサノヲが悪と闇を代表して、スサノオは出雲に追放される。アマテラスは孫のニニギを降臨させ、スサノオの子孫のオオクニヌシに国譲りを迫ります。皇位はなぜ祖母から孫に継承されたのか。著者はその背景に、古事記がつくられた時代があることを示しました。持統から草壁の遺児の文武への譲位を暗示している。さらに元明も孫の聖武に譲位します。これこそが不比等の強い願いでした。

 古事記をつくった太安万侶は、民部卿まで上った高官で実在が確認されていますが、もう一人の稗田阿礼は長い間、謎の人物でした。著者は不比等本人の仮名であることを立証し、すべてが元明と組んだ不比等の策謀であったことを明らかにしました。反対者はみな殺されています。古事記は宮中に秘められ、表現を遠慮した日本書紀が、正史として出たのです。

 オオクニヌシには多くの異名がありました。これはヤマトの神の総称でしょう。出雲に流されて殺されました。出雲大社に祀ったとされますが、神社の起源は仏教の寺に倣ったからで、古事記成立の時代ですからごく新しい。出雲風土記には、出雲神話が一つもありません。古来ヤマトにいた神々は邪魔で、みな出雲に流したのです。不比等の「宗教改革」でした。

 聖徳太子はどうもよくわからない。法隆寺の不気味さを「隠された十字架」に書いても、まだ謎に包まれていたと率直に語ります。太子は妃とともに突然死しました。なぜか?

 柿本人麿は早くから探索して、ほぼ全容を捉えることができました。契沖以来の定説は、身分、年齢、作品の三点すべてに大きな誤りがある。身分については、古くから朝臣と呼ばれ、古今集の序文にも太夫とあります。これは五位以上に相当し、百人一首の肖像も45位の服装をしています。ところが契沖や真淵は、万葉集に人麿死すとあることから、6位以下であったとして、これが定説となっていました。しかし宮廷歌人として草壁皇子の挽歌をつくり、皇子たちと歌の贈答をしている。5位以上でなければありえないことです。下級層に使う「死す」と書かれたのは流人だったためで、その後許されて復位しています。若くみた年齢も真淵の誤りで、作歌の荘重な調べは壮年の、人麿歌集はその青春の歌でした。戦後の表記論研究で、作品の過程が解明されました。人麿は助詞を挿入して日本語を進化させたのです。持統に仕えましたが、やがて不比等と対立します。詩人の悲しい運命でした。「了」

 

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