ちくま新書2017年4月刊 著者は、東京大学工学部、同大学院出身の建築家です。建築が政治、宗教、文化と深い関わりがあることに注目、建築的想像力による日本古代史の研究を進め、「法隆寺の謎を解く」、「伊勢神宮の謎を解く」、「大仏はなぜこれほど巨大なのか」などの著書があります。
本書は、建築が日本誕生の舞台となった古代における権力者たちの、自らの権威を明らかにする政治力の手段とみて、日本古代史を再構築しようとした壮大な試みです。古代における建築とは、歴史の舞台背景だけではなく、権力者たちが駆使した政治的言語だったのです。
日本書紀によれば、6世紀半ばに大王欽明のもとに百済から仏教が公伝されました。まだ茅葺、掘立柱だった磯城嶋金刺宮で、金色の仏像一体、幡や経典などをみた欽明は、「仏の相貌端厳し、全だ曽て有ず」と驚嘆します。仏教はまず、形あるもの、絢爛豪華なものとして伝わりました。当時の朝鮮半島情勢は不安定で、百済は倭国に軍事援助を要請し、その見返りに文化外交を仕掛けてきたのです。新来の神に王宮は大きく揺れました。厳しい権力闘争の末に、外交を一手に担ってきた崇仏派の蘇我氏が勝利して、政治の実権を握ります。その力は王権を凌ぎました。蘇我馬子は、この国最高の権威を体現すべく、氏寺として自らの根拠地に大伽藍飛鳥寺を建立します。百済からの専門技術者8人による大工事でした。
その規模は、回廊内の面積で現在の法隆寺の1,8倍もありました。版築工法による基盤に礎石を置き、瓦葺で、当初は、中門―塔―金堂が南北タテ一列に並ぶタイプでしたが、高句麗からの新情報で、急遽塔の左右にまた金堂を追加しました。五重塔の心礎には仏舎利を安置します。こうなると前方後円墳はいかにもダサい。蘇我氏は方墳に転換し、大王陵もこれに倣って、前方後円墳は廃絶しました。馬子の主導で価値観が激変したのです。王宮も飛鳥に移りました。完成して2年後の推古7年(599年)に大地震があり、舎屋がすべて倒壊しましたが、飛鳥寺だけは倒れず、権威はますます高まったのです。国の中心となりました。
実権を握った馬子は、壮大な国家デザインにかかります。推古9年(601)、厩戸王子による斑鳩宮の建設が始まりました。飛鳥から20㎞、難波の港に出る重要な中継地です。斑鳩寺(後の法隆寺)もセットで創建され、どちらも東南の飛鳥に向いて、筋違い道で結ばれました。次いで難波に四天王寺が造営されます。すべてが馬子の主導によるものでした。
やがて厩戸、馬子、推古が相次いで没し、蝦夷によって田村王の舒明が飛鳥岡本宮で即位します。ところが舒明は、王権の威信を取り戻すべく、飛鳥寺をはるかに超える大寺の建立を企てます。九重の塔と金堂が非対称に並ぶ、独創的な百済大寺です。近年その遺構が確認されました。自前の美意識を高らかに宣言したのです。蝦夷は愕然とします。百済大寺の完成目前にして、舒明は謎の死を遂げました。太后の皇極が即位して、蘇我と撚りを戻します。
蘇我は上宮王家を滅亡させました。創建法隆寺も、落雷で全焼したといいます。しかし著者は、天智による放火とみています。木材の伐採年から現法隆寺がすでに完成していたこと、本尊の釈迦像が無傷で移されていることもあります。天智は早くから構想していたのです。
仏教は定着し、乙巳の変での蘇我宗家滅亡後も、飛鳥寺は国家の大寺として栄えました。了