高見浩訳、飛鳥新社、2014年4月刊
著者はアメリカ人で園芸師をしていましたが、34歳のとき休暇でスイスに旅行して、氷河湖の畔のホテルに滞在しているうちに、謎のインフルエンザウィルスに冒されました。どうにかアメリカ北東部メイン州の自宅に帰りついたものの神経症状は深刻で、そのまま病院に運ばれて寝たきりの苦しい闘病生活を送ることになったのです。
高度な検査をしても感染の原因は不明で、細胞内のミトコンドリアが機能せず、自律神経系が害されていました。治療法も見つかりません。この不条理の運命にも精神は冴えるばかりで、ベッドに寝たまま自宅の庭の花々や、その奥に広がる森の記憶を辿ることだけが生きがいになっていました。
ある日、友人たちがお見舞いに、嬉しい野生のスミレの一鉢を持ってきてくれました。ベッドのかたわらに置いてよく見ると、高さ2,5cmくらいの殻を持った小さなカタツムリが隠れていたのです。それまで目にも留めたことがなかった、この生きものとのお付き合いが始まりました。体長は5cmほどで、全身がヌメヌメしています。夜になると鉢の側面とその皿のあたりをゆっくりと探索し、朝にはスミレの葉の裏で寝ていました。夜行性なのです。
枕元の手紙に小さな四角の不思議な穴があいていました。毎夜その穴が増えてゆきます。どうもカタツムリが食べたらしい。そこで花びらを一つ鉢に置いてみると、うまそうに食べています。何と微かな音まで聞こえました。その瞬間、彼女にこの小さないきものとの仲間意識が芽生えたのです。本で調べると、カタツムリの好物はマッシュルームでした。住まいも木箱に森の腐葉土を入れてやると、本格的なテラリュームになりました。著者は夢中で観察し、また多くの専門書を読んで、カタツムリの謎に満ちた世界に深く入ってゆきました。
カタツムリの歯は、2640本もあります。触角は伸縮自在、螺旋の構造は驚異的です。粘液にも大きな効用がありました。いまから数億年前に海中に棲んでいた生物が、乾いた陸地の環境に適応するために、哺乳類の祖先は乾いた皮膚に進化して脱水を防いだのに、腹足類のカタツムリでは反対に体の表面を粘液で覆いました。その粘着力は強大で、自分の体重の50倍のものを運ぶことができます。全軟体動物の80%を占める腹足類は、すべての動物群の中で最も繁栄している動物の一つでした。カタツムリのすべては謎めいています。周囲には敵が一杯なのに、巧みに自衛しています。環境に溶け込むボデーの色や、緩やかな移動速度は、見つかり難いでしょう。「最善の行動は何もしないこと」は著者の共感を呼びました。
ある朝、テラリュームを覗いて驚きました。8個の小さな卵があったのです。カタツムリは雌雄同体でした。そのロマンチックな愛の営みは、広く知られています。彼女のカタツムリは、おそらく前年のうちにパートナーによって受胎していたらしい。それが環境の好ましさをみて産卵に踏み切ったものとみられます。全部で118匹となった新生児たちは、スクスクと育ってゆきました。そして著者の病状にもようやく回復の兆しが見えてきたのです。
退院した著者は、カタツムリたちを森に返しました。感動的な本書は、多くの国際賞を受けました。なお訳者も翻訳に際して、実際にカタツムリを飼育、観察したそうです。「了」