「斑鳩の宮大工三代」西岡常一、青山茂著 平凡社

法隆寺や薬師寺の修理、復興に活躍した宮大工の第一人者、西岡さんから学んだ
古代建築の粋と木の使い方をこの本から学びました。(福島 巌)宮大工、西岡常一の家は法隆寺境内にあり、代々法隆寺営繕の仕事に携わってきた。
子供の頃から祖父に棟梁の跡継ぎになるためにしごかれた。
そのため学校は工業系ではなく、祖父の勧めで土と木を学ぶ農学校に行った。
卒業後には法隆寺の模型を作って勉強した。細部の構造を学ぶには良い経験だった。
数百年毎の大修理と小修理を重ねて飛鳥の古代建築は維持されてきた。
ちょうど昭和9年から法隆寺の大修理が開始され、めったに無いチャンスにめぐリ合った。
修理は一般に挽立材を使ってきたが大講堂の修理時から昔通りに原木で着手するようにした。
木の現物を見て垂木にするか桁にするかを決める。年輪を見て、谷育ちか峠育ちかが分かる。
奈良時代は木材の加工は割っていた。ノコギリで挽くようになるのは室町時代以降である。
割るとねじれた木と素直な木に分かれ、クセによって使い道を分ける。

 法隆寺が建てられた頃、大和平野は全部自然林で覆われており、周りの木を切って使用した。
大量のヒノキが切られてしまうので奈良の大仏を造る頃には琵琶湖周辺から運んできた。
鎌倉時代は山口から、元禄の頃には九州から取り寄せている。

 昭和24年、金堂の火災があって、これがキッカケで予算が付き、昭和の大修理につながった。
西岡棟梁は法隆寺の修理、薬師寺の金堂復興、西塔の建設など設計者および棟梁として大活躍した。
学者との論争も多くあったが大学者といっても自分の専門分野だけで総合的な知識を持ち、現場に
精通している西岡氏にはかなわなかったようだ。1995年86歳で亡くなる。

【法隆寺金堂の解体修理】

金堂を解体してわかったこと : 全部ヒノキで、大小寸法の違う材料を組み合わせてできていた。
これが遠くから見て調和のとれた、落ち着いた美を造り出している。
寺院建築様式は中国からの伝来であるが、材料を石や煉瓦から木に変えたのは日本の大工だった。
日本の湿気に備え軒を長く伸ばすとかそりを大きくつけて美しく見えるようにした昔の大工のレベルは
相当高かった。
古代から日本建築は堀立て柱(穴を掘って柱を埋める)だったが柱石の上に載せるように変革した。

ヒノキの違い : 
産地によって微妙な違いがある。
吉野はチョイ冷たい(麻の感じ)、尾州(木曾材)は真綿を触った感じ(絹物)、薬師寺で使った台湾材は
スフとかナイロンの感覚。
伝統に従い一つの物件は全て同じ産地の材料で作り込んできている。
1300年前の木はまだ生命を保っていた。
解体の時、屋根の瓦を外すとおもしが取れて垂木とか隅木が元の位置に戻ってきた。

木の使われ方 :
 
曲った木は曲ったなりに組み合わせている。組み合わせを間違えると柱が回転してしまう。
現在は木が曲がっていてもノコで真っ直ぐに挽いてしまう。
これでは木目、繊維が切断されてしまう。強度と寿命を落とすことになる。

木が育った場所 : 
峠の木は強い。谷の木は柔らかい。北や西面の木は柔らかく造作材に使い、南東面の木は堅い
ので軸材に使うようにしている。木は北や西に生えていても枝がでるのは南東方向が多い。
斜面に生えると直角に目を出して伸び出す。その後は傾斜に関係なく曲がりながら垂直に成長してゆく。
クセが出る原因である。内に節を内蔵している木は強い。
素直に伸びて節の無い木は弱く割れてしまうことがある。
スクスク育った木は弱く、風雨に耐えて厳しく育った木は強く長い年月に耐える。

木の乾燥 : 
乾燥に要する時間は最低3年、完全を求めると10年かかる。
昔は切ってから現地に持ち込むのに3年ぐらいかかるから問題なかった。
木を乾かすには雨や雪に晒さないとだめだ。
琵琶湖周辺で切って淀川をいかだで引いてくるのは筋が通っている。
切った直後は水に沈むが1年漬けておくと樹液を吐き出して4割方水面から顔を出してくる。
高周波乾燥でやった例もあるが数年も経つと割れが発生した。

法輪時三重塔の再建 : 
昭和19年に落雷によって焼失した。法隆寺をモデルにして再建した。
鉄材を使って補強するかどうか論争があったが必要最小限にとどめることになった。
鉄材は腐食の問題がある。

薬師寺金堂の復興 : 
最初は天武期に飛鳥に建設されたが奈良への遷都に伴ない移された。
本尊の薬師三尊を納めた金堂は何度か火災に会い仮堂の姿で残っていた。
高田好胤住職の写経による資金集めの努力により再建が軌道に乗った。

  ヒノキ : 材料のヒノキを日本中探したがまとまった材料になるヒノキはどこにも無かった。
台湾にあると聞き見に行ったら海抜1800~2000m、阿里山の岩山に育っていた。
風雪に耐え、頑張り抜いた強い姿だったので安心して、金堂用に3,500石を買い取った。

  木にコンクリートをつなぐ : 地震を心配した学者、官庁からの要望で中央部分は鉄筋
コンクリートの柱で囲んで仏像を配置するような形になってしまった。
コンクリートの寿命は意外と短い。また、木とコンクリートは揺れ方が違うので木との接合部
に問題が発生して今後の課題が残りそうである。

西塔の再建 : 
東塔だけだった薬師寺に西塔を作る建白書を西岡棟梁が提出、高田住職の認可を得て設計
に入った。軒のそりを深くするのと、東に比べて一尺高くした。
東塔は1300年の重みで沈み込んでいるのでこの分を元に戻した。

  塔の心柱 : 中心柱は心礎の上においてその周辺に四天柱や桁など側を建ててゆく。
塔の荷重は側が持って心柱は自身の荷重のみを受け持つ。
風や地震があっても井桁で挟まれているからお互いに干渉しあって揺れを吸収してしまう。
インド仏塔と同様卒塔婆であることが本来の姿で礎石には舎利が埋められていた。

  心柱は節のある樹齢二千年の木 : 木を4割にして金属のバンドで固めて一本柱に作る。
26尺の長さに柱をつないでゆくが最上部の相輪のある所はつぎが出来ないので45尺ある。
節のあるかたい木を選んで心柱にする。

                              福島 巌   記

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