宮地利彦のモンゴル紀行(4) カラコルムの成り立ち 2016年6月

カラコルム博物館内にあるカラコルム成り立ちの説明
モンゴル帝国の最初の首都・カラコルムは1220年チンギス・ハーンが制定した。
息子のウゲデイ・ハーンはここに都市を建設した。
1250年代首都はカラコルム(その中にあるエルデニ・ゾーはチベット仏教遺跡です)は面積1.6k㎡、人口は約1万5千人。
国際色豊かな町で契丹、中国、チベット、ウイグル、ペルシャ、インドなどの国々からやってきた人々が集まっていた。
更にハーンの遠征で、ヨーロッパで捕虜となったフランス、ドイツ、ハンガリー、ロシアの人々も含まれていた。

フランス人修道士の記録によると町は土壁に囲まれ様々な機能の地区建物が配置されていた。
特質すべきは宗教建築で仏教・道教12、イスラム礼拝堂2、キリスト教の教会1、があった。
信仰の自由を尊重する都市においてイスラム礼拝堂周辺にはイスラム商業地区であり、契丹人は街の中心に職人地区を形成していた。
南西にはモンケ・ハーンが建立した仏教寺院が存在していた。
北西地区は建物の数が少ないことから遊牧民のゲル地帯だったと思われる。
カラコルムは多国籍、多宗教、多文化な都市だった。
2005~2006年にかけてモンゴル・ドイツ共同調査隊によりカラコルム遺跡の大規模発掘がなされた。
石碑に関する研究の多くは日本人研究者によって行われた。
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エルデニ・ゾーを囲む壁のストーハと内部にある寺院
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内部にある寺院                                               寺院内の仏像
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共産党支配下にて破壊され礎石のみが残る寺院跡

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