日本海の砂防林 吉澤有介 2010年3月25日

新潟市西海岸公園のクロマツ
 お彼岸の墓参で、郷里の新潟市に行ってきました。
市街地にある留守宅から歩いて
5分ほどで、もう海岸の砂丘に出ます。
日本海の雄大な風景がひろがりますが、ここは子どものころからの見慣れた風景なので、延々と続くクロマツの砂防林も、地元の私たちにはごくあたりまえの存在でした。
しかしこのところの人工林研究で、吾ながら樹木の見方がすこし変わってきたようです。
ここもれっきとした人工林なのですね。しかもその由来が明らかなのです。
nigata1_edited.JPG早春の穏やかな風に誘われて、このような人工林があることをあらためて見直してきました。ここ新潟の町は信濃川の河口に開けた港町で、かつては北前船の寄港地として賑わっていました。ただ町には大きな悩みがありました。
それは日本海からの冬の強い季節風による飛砂の被害だったのです。
それがある人物によって救われたというお話がありました。
新潟は江戸時代にはもともと長岡藩領でした。
それが
1843年(天保14年)に、長岡藩の密貿易が発覚して幕府直轄の天領に召しあげられ、初代新潟奉行として川村修就(かわむらただたか)が着任しました。
彼はお庭番として僅か200俵取りの身分でしたが、この密貿易の探索に関わっていたのですね。
つまりCIAのようなものだったのでしょう。
その実績をみた時の老中水野忠邦に抜擢されて、いわゆる遠国奉行になったというわけです。
彼は着任早々各方面にわたってめざましい活躍をしましたが、その大きな柱が飛砂対策でした。それまでの一面の裸の砂丘に、3万本のクロマツを植えたのです。nigata2.JPG
天保15815日に最初の植樹をしたときに読んだ彼の歌があります。
うつし植えし二葉の松に秋の月 梢のかげはだれか仰がん
幕府にはこのような立派な官僚もいたのですね。そのクロマツが見事に飛砂を防ぎ、町はその後大きく発展しました。新潟の人々は彼の偉業を偲んで銅像をその林の中に立てています。奉行の銅像などは日本中でもたぶんここだけでしょう。彼はその後、堺奉行、大阪西町奉行から長崎奉行になりました。明治11年に84歳で没したそうです。      クロマツの砂防林はその後も植え継がれ、170年の歴史を語りながら西海岸公園として市民に親しまれています。どのマツもみな60度くらいの角度に傾いているので、冬の季節風の強さがおわかりでしょう。その季節風の影響は、クロマツの年輪にもはっきりと現れていました。
これはたまたま見た切株です。
年輪の中心が北西寄りに極端に偏っているのですね。
おおよそ
70年ほどの年輪でしたが、内陸方向がのびやかに広いことがわかります。
偏心率で0.5以上にもなるでしょうか。
その内陸方向の年輪幅を見ると、中心部の10年ほどがごく狭く、20年から40年くらいにかけて広くなり、50年ころからまた狭くなっています。
これはそのまま生長の度合いを示しているとみて良いでしょう。

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   先日、私は武蔵大学の公開講座で、屋久島の生態研究者である丸橋珠樹教授に、年輪から生長曲線をつくることを教わりました。
横軸に年数をとり、縦軸に年輪幅の累積値をとると、その樹木の生長の様子が読み取れるのです。
これはそのまま光合成による
CO2固定の様子を示しています。
新潟海岸のクロマツでは、目測しただけですが10年から50年くらいにかけて、光合成が活発であったものと推定されました。

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   現在の砂防林は、その一部を地域にある私の母校の新潟小学校(当時は国民学校といいました)の子どもたちが手入れをしていますが、あとは自然にまかせたままの鬱蒼とした森で、さまざまな野鳥の天国になっています。
何とキジも住みついていて、
5月ころには遊歩道でばったり出会うことも珍しくはありません。
この右の写真はニセアカシアの老木です。そのほか常緑樹も混じっていますが、きっと野鳥が種子を運んできたのでしょう。海岸ではいまもクロマツの植林が続けられています。この日は静かでしたが、冬の日本海の荒波の侵食はすさまじく、テトラポットの堤防でようやく砂浜を守っている状況です。春はまだ浅く、雪雲の名残が深く垂れこめて、すぐ向かいにある佐渡の姿は残念ながら全く見えませんでした。いつの日かかっての白砂青松の風景を取り戻したいものと願いながら家路につきました。
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皆さんも身近な樹木の生長のありさまを観察してみられたらいかがでしょうか。
意外な実態が見えてくるかもしれません。「了」

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