「モンゴル帝国誕生」白石典之著2018年9月25日 吉澤有介

- チンギス・カンの都を掘る -  講談社選書メチエ2017年5月刊
著者は、群馬県生まれ、筑波大学を出た考古学者で、現在は新潟大学人文学部教授です。四半世紀を超えてモンゴルの考古学調査を行ってきました。2001年からは、モンゴル国中東部の草原にあるアウラガ遺跡の発掘を行い、それがチンギス・カンの宮殿跡だったことを確認するという大発見がありました。チンギス・カンは、モンゴルの歴史上、世界でもっとも有名な人物です。13世紀にユーラシアを席捲し、その後の世界史に大きな影響を与えました。しかしその生い立ちや事績はいまだに大きな謎に包まれています。文献資料が、「元朝秘史」などごく僅かで、信頼度が保てないうらみがありました。その点で、著者らの考古学は、埋もれた遺跡や遺物の発掘によって、はるか800年前の事実を明らかにしたのです。
アウラガ遺跡の成果からわかったチンギスの姿は、決して華美に溺れない、質素な遊牧民そのものでした。当時のモンゴル高原の自然は、「極限環境」だったようです。樹木年輪から復元した古環境は、夏季平均気温15度ほどで、直近千年間でも最も寒冷だったとみられます。この寒冷に乾燥が加わりました。平均海抜1000mの高原の草は、降水と気温のギリギリのバランスで生育しています。この寒冷化がモンゴルの各部族間の抗争を引き起こしたのです。しかしチンギスの生まれたヘンテー山地は、深い針葉樹タイガの森だったので、この危機を乗り越え、小部族ながら草原にも進出して、次第に存在感を示してゆきました。
この頃、黄河一帯を抑えた新興国の金は、勢いに乗って契丹を滅ぼし、逃げた残党の西遼と対峙しました。チンギスは金の先鋒として活躍し、1196年に格上のタタルに勝利します。

その主な勝因は、自領で産出した鉄鉱石で製鉄していたことでした。チンギスは鍛冶工房を育成し、鍛造で極軽量の防具や武器を作ったのです。アウラガ遺跡では、精錬の際に出たスラグが大量に発見されています。低炭素の軟鉄に高炭素の硬い鉄を合わせた工程もありました。鍛冶工房は前線まで移動し、手持ちの設備で、どこでも武具をつくれたのです。モンゴル高原の広壮なステップは絶好の馬の産地です。軍事力の要は騎馬軍団で、大量の馬群で一気に押し寄せるのです。しかし、当時は他の部族も金も、鋳鉄で武装していたので、その重さで騎馬軍団の動きに格段の差が出ました。チンギスは巧みに軽量化と鉄器生産技術をリンクさせて、軽装騎兵で機動力を存分に発揮し、金とも断交して自立しました。
チンギスは遠征を開始します。その動機は、意外にも身近で現実的なビジョンでした。「モンゴルの民の安全と繁栄」の実現にあったのです。その方策も伝統の「遊牧知」に基づいて、「馬、鉄、道」を重視したものでした。チンギスにはどうしても虐殺と略奪のイメージが付きまといます。確かにそれはあったでしょう。しかしそれは相手の出方によるものでした。
大半は、征服地の信教の自由を認め、社会システムの存続を許して、多様な民族をゆるやかに統治しました。混沌としたユーラシアが安定し、東西交流が活性化して「パックス・モンゴリカ」が実現したのです。モンゴル帝国は、太平洋から地中海までを版図とし、人類史に輝く「通商革命」を起こしました。チンギスは、乾燥地を豊にすることを目指して、モンゴルに生き、モンゴルのために生涯を捧げたのです。最新の考古学の大きな成果でした。了

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