平凡社新書、2015年2月刊
- エジソンが恐れた発明家 - 「テスラつて誰?」と聞かれて答えられる日本人は少ないでしょう。かってオバマ大統領は演説で、今日のアメリカをつくった移民の英雄として、アインシュタイン、カーネギー、グーグルのプリンに並べて、テスラの名前を挙げました。また最近話題の電気自動車ベンチャーの社名の由来にもなっています。テスラはアメリカ人の誇りなのです。
著者はテスラ研究家として、この知られざる天才発明家の全貌の解明に情熱を注いできました。テスラは、エジソンの最大のライバルだった発明家で、今日の交流電力の生みの親であり、また無線技術の先駆者でもあります。19世紀末を中心に活躍した偉大な発明家でしたが、晩年は不遇のうちに亡くなったために、しばらくは忘れられていました。しかし近年になって、その評価は、エジソンよりも独創的で、アインシュタインよりも魅力的だとして、世界的に急上昇しています。テスラ・ルネッサンスとも呼ばれる勢いになってきました。
ニコラ・テスラは、1856年にクロアチアで生まれました。父はセルヴィア正教会の司祭で、母も聖職者の家系でしたが、この母親が尋常でない記憶力を持っていたそうです。母親の賢さは5人の子供に受け継がれました。とくに7歳年上の兄は稀有な聡明さを発揮していましたが、12歳のときに事故で早逝してしまいました。ニコラはこの兄を理想として学び、早くから非凡な才能を現しました。4歳で水車を発明?し、学校では数学が抜群で、不思議な直観力がありました。飛び級で工科大学に進学して、当時生まれたばかりの電気工学に興味を持ちます。寝食を忘れるほど集中して、世界初の交流モーターを完成させました。
1884年秋、テスラは多相交流システムのアイデアを持って、新大陸アメリカに渡り、当時絶頂期にあったエジソンの助手になります。エジソンは彼の才能に驚いたものの、直流による白熱電灯の事業を拡大するため、交流システムの優位を認めようとはしませんでした。そこでテスラは独立し、ウェステングハウスの協力を得て交流革命を実現してゆきます。
エジソンとの電流戦争は、ナイヤガラ水力発電所の建設などを巡って熾烈を極めましたが、1893年、シカゴ万博でついにテスラの交流勝利が決定的になったのです。テスラは次々に特許を取得しましたが、不運が重なって充分な利益にはつながりませんでした。
それでも次の目標の高周波高圧電流の解明に挑戦します。パリ万博でも成功し、才能が一気に開花しました。現在のコンサートステージを彩る共振変圧器「テスラコイル」をはじめ、真空放電、高周波誘導加熱、電力伝送から無線通信に向かいました。商才に優れたマルコーニは、その特許を使用して成功したのです。しかしテスラは、さらに先へ進みました。当時の主な燃料であった石炭の枯渇を予想して、再生可能な自然エネルギーに注目します。太陽熱、風力、地熱の活用です。さらに無線による送電システムを構想します。恐るべき先見性でした。しかしその後の重力利用の世界システム構想は、あまりにも大き過ぎて事故が続き、不運な火災もあって出資者は次第に去り、やがて86歳の天才は静かに息を引き取りました。 テスラの思考回路は神秘的なほどだったので、その死後にオカルトやマッドとみられたこともありました。しかし21世紀は、まさしくテスラの世界になりつつあるのです。「了」
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