洋泉社歴史新書2018年7月刊
-八幡信仰と日本人-
著者は、國學院大學出身の歴史学者で東北福祉大学教授。石清水八幡宮研究所主任研究員です。八幡神社は、全国の神社総数でダントツ一位を占め、「八幡大菩薩」のおまじないとともに、広く上下の信仰を集めてきました。しかしその正体には、多くの謎が秘められています。奇しくも著者は、かって相模国府のあった神奈川県平塚市八幡の生まれでした。
古事記や日本書紀に八幡さんは出てきません。八幡神の由緒を伝える最古の記録は、「東大寺要録」の弘仁12年(821年)にある縁起で、6世紀に豊前国宇佐に初めて降臨した八幡神を、欽明天皇29年(568年)に大神朝臣比義が、社を建て祀ったとあります。一説によれば、八幡大神は金色の鷹に化身して荒れていましたが、渡来人の辛島氏が祈祷したところ、鳩に変身して和御魂になったといいます。その託宣が「辛国の城にはじめて八流の幡と天下って、我は日本の神となれり」でした。この辛国は、唐または韓や加羅にも通じるでしょう。「豊前国風土記」の逸文にも新羅の国の神が渡ってきたとあります。いずれにしても渡来人の神で、シャーマンであった辛島氏が代々禰宜となってその神託を広めたのです。
それではなぜ新参の八幡神が、全国に一番多い神社になったのでしょうか。きっかけは東大寺の創建にあたって、その鎮守神になったためでした。大仏の鋳造に難渋していたときに、神輿に乗せられて宇佐から平城京に遷座したのです。神託によって駆け付けた八幡大神のご利益で、東大寺の大仏は見事に完成しました。当時の日本は新羅と揉めており、内政も不安定でした。聖武天皇は渡来系の神の力を借りたのです。天平勝宝元年(749年)、八幡大神には特別待遇の一品の品位が与えられました。神功皇后三韓征伐の申し子の応神天皇と同体とした説もあります。その直後の神護景雲3年(769年)に、有名な弓削道鏡による宇佐神宮神託事件が起きました。八幡大神の神託が、皇位継承まで左右したのです。
やがて桓武天皇が即位しました。天応元年(781年)のことです。生母が渡来系の氏族なので、密教を積極的に導入して皇統の正当化をはかりました。最澄や空海、それに神託を受けた和気清麻呂が活躍したこの時代に、八幡大神は何と出家して。八幡大菩薩になったのです。仏の化身が神であるとする神仏習合の始まりでした。8世紀には東大寺八幡宮が造営されて鎮守になり、全国の国分寺や国府に勧請されました。さらに都の裏鬼門にあたる男山に、石清水八幡宮寺が清和天皇によって創建され、平安京の王城鎮守となったのです。
古代渡来系の有力氏族であった、東漢氏の坂上田村麻呂が征夷大将軍になり、陸奥国に派遣されて、その拠点とした胆沢城に八幡宮を勧請しました。しかし当時は、まだ軍神ではなかったようです。その後清和源氏が八幡大菩薩を祖先神としてから、源氏の氏神として深く崇敬するようになりました。源義家の師であった大江匡房が主導したと伝えられています。義家の4世の孫にあたる源頼朝は、治承4年(1180年)に鎌倉に入りました。幕府の鎮守神として、また清和源氏の氏神、武家の棟梁の軍神として鶴岡八幡宮を祀りました。御家人たちもこぞって自分の領地に祀り、足利幕府から信長、秀吉、家康へと伝わりました。
八幡神は、また伊勢と並ぶ朝廷の宗廟として、国家の守護神として崇敬されたのです。了
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