-もう一つの日本の歴史- ちくま新書2016年4月刊
著者は、旭川市博物館の館長で、アイヌ史を専攻する考古学者です。本書で、アイヌこそが縄文人の正統な末裔であることを、最新の研究や調査で明らかにしています。
アイヌとは、近世には北海道を中心にサハリン南部、千島列島などに暮らしていた、独自の文化と言語をもつ人々で、今も北海道には24000人ほどが住んでいます。現在より気温が6~8度も低かった約3万5千年前、大陸、サハリン、北海道が陸続きだった日本列島に旧石器文化を持つ人類が住み着きました。そして1万5千年ほど前に気候が温暖化し、動物や植物の生態系が大きく変化するなかで生まれた独自の文化が縄文文化です。
木の実など植物性の食糧に加えて、狩猟や漁猟を利用し、その加工具や、煮炊きする土器が発達して定住するようになりました。1万年以上にわたって日本列島のほぼ全域に展開しています。旧石器人がそのまま縄文人に移行したのでしょう。3千年ほど前になると、九州北部で水稲耕作をおこなう弥生文化が成立し、次第に東北北部まで及んできます。
しかし北海道ではこの水稲耕作が受け入れず、本州とは異なる道を歩むことになりました。本州の弥生・古墳文化と並行する「続縄文文化」が続いたのです。その頃さらに北方のサハリンから南下してきた人々の「オホーツク文化」の影響を受けました。7世紀以降の奈良・平安時代に入ると、その農耕文化が強く及んで「擦文文化」に移行しました。本州との交易が活発になります。しかしそこには縄文文化が色濃く残っていたのです。
近年、北海道で縄文時代中期から後期にかけての巨大な遺跡が続々と見つかりました。環濠で区画した祭場や墓地で、その規模は本州の古墳を超えるほどですが、それは首長個人の墓ではなく、権力や階層と関係ない集団の協同施設でした。集団が集団のためにつくった聖域や祖霊を祀る場で、祈りや心にかかわる、縄文文化の本質を示すものだったのです。
その心の文化は、本州の縄文人とも深く結ばれていました。北海道の遺跡にイノシシの骨が多数見つかっています。イノシシは本州全域で祭られて、そこには「縄文イデオロギー」が共有されていました。北海道にはいないイノシシが持ち込まれて飼育され、祭りがおこなわれていたのです。それが変形して、現在のクマ祭りになったと考えられます。
アイヌの言語は、本州の方言に多く残っています。さらに最近のヒトゲノムの解析によって、日本人の二重構造が明らかになりました。本土人は、弥生時代に大陸から渡来してきた東アジア人と縄文人の混血ですが、アイヌと琉球人は縄文人に近く、とくにアイヌが最も純粋だったことがわかりました。また古代の東北にいた蝦夷は、アイヌよりも出雲の人々と近縁でした。方言も似ています。ある特定の時期に大陸から渡来したのでしょう。
私たちの共通祖先である縄文人は、現代のどの人類集団とも大きく異なっていました。形質人類学者の山口敏らによると、化石現生人類のクロマニヨン人とそっくりだといいます。遺伝的多様性が低く、ごく古い時代から周辺集団から孤立していたことは明らかです。
アイヌは弥生文化をきっぱりと拒絶して、毛皮やタカの羽の交易に特化したことで縄文文化を守ったのです。私たちの源郷である縄文文化を探るヒントがここにありました。了