「稲の日本史」佐藤洋一郎著 2018年6月3日 吉澤有介

角川文庫、平成30年3月刊
著者は京大農学部出身の稲の専門家で、総合地球環境学研究所教授を経て、現在は京都府立大学特任教授です。本書は平成14年に角川選書として刊行されましたが、今回その後の研究成果を踏まえて、文庫本として改訂出版したものです。
この15年間の稻作史研究の進展は目覚ましいものでした。遺跡の年代測定の技術、DNA分析技術などの発展により、新たな知見が数多く得られ、イネと稲作にまつわる文化の見方が大きく変わったのです。

これまでにも岡山市内にある6400年前の縄文の遺跡から、イネの葉が蓄積した珪素体プラントオパールが確認され、大きな話題になりました。東北各地の縄文遺跡からも発見されています。しかし、それらの遺跡からは水田耕作の痕跡が全く出てきません。イネの葉や炭化米が出たとしても、果たして縄文稲作があったのか、学会では激しい論争が続きました。

ところが岡山の遺跡で、プラントオパールが土の中だけでなく、縄文土器のかけらからも検出されて、縄文の人々の暮らしの中にイネがあったことが確実になったのです。とすればそれはどのような稲作だったのでしょうか。水田以外の方法だったに違いありません。

著者は、その類型を求めて、ラオスの深い山に焼畑農耕の現場を調査しました。そこはイネなど多様な作物が栽培されており、焼畑の初年度は雑草も病原菌も害虫も出てこないので、生産性は驚くほど高く、現代日本の反収の5割にも達します。肥料の農薬も不要です。ただ3年を過ぎると雑草や害虫が出て反収が激減するので、その土地を放棄して森に返すのです。農具もいらず、草取りしたり肥料をやるよりも、はるかに合理的な農法でした。

さて、縄文の稲はいつどこから来たのでしょうか。イネには20万種ともいわれる品種がありますが、大きくわけると日本に渡来したジャポニカには、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの2種があります。前者はアルカリ溶解度が低く、主にインドネシア、フィリッピン、台湾、中国雲南省の奥地などにあり、後者はアルカリ溶解度が高く、中国中北部や朝鮮半島にあり、現在の日本の水田のイネもこれです。かって柳田国男は「海上の道」を提唱しましたが、それでは熱帯ジャポニカになるので、現状に合いません。考古学会では否定的でした。

しかし縄文時代に稲作があったことが確認されてみると、「海上の道」で熱帯ジャポニカが来たことは確かです。それが弥生時代に中国・朝鮮ルートの温帯ジャポニカ水田方式の弥生文化にとって代わられたのでしょう。ところが著者は、青森の弥生遺跡の水田から出た炭化米をDNA分析し、それが熱帯ジャポニカと確認して驚愕しました。熱帯ジャポニカが生きていたのです。各地の弥生時代の水田遺跡でも同様でした。弥生時代で一気に現代のイネに変わったのではない。すでに休耕田までありました。縄文の焼畑思想が見られるのです。現代のような均一単作の美田は、たかだか近世以降に支配層からの強制で成立したものでした。反収が急増したのは近代で、水田の維持には多大なエネルギーを要します。近年のコメ離れに悩むことはない。私たちには、今なお漁猟採集などの縄文要素が、色濃く残っているのです。縄文の要素を復権させよう。著者は、多様性の復活を提唱しています。「了」

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