講談社選書メチエ2008年2月刊
平賀源内は、1728年(享保13年)讃岐国寒川郡志度浦に、高松藩の米蔵番白石茂左衛門の嗣子として生まれました。遠祖は信州海野口で武田信玄に滅ぼされた平賀源信入道とのこと。幼少期から人を驚かせることが好きで、10歳のころお神酒を備えると天神様が顔を赤くするからくり掛け軸をつくっています。文学や俳諧にも親しみ、やがて父の死で米蔵役を継ぎ、藩命で長崎に遊学をして見聞を広めると、平凡な下級役人をきらい、1754年(宝暦4年)に家督を義弟に譲って、本草学者を目指して生国を離れました。まず大坂に出て医師戸田旭山に師事し、さらに江戸の名門本草学者田村藍水のもとで修業しました。
本書では、その後江戸で、エリキテルをつくり、コピーライターやファッションリーダー、流行プロジューサーとして名を馳せた多才の源内の実像を追い、源内自身は終生あくまでも本草学者であると、強く自負していたことを明らかにしています。
本草学とは、漢方医学で薬物として使用する動植物鉱物を、あらゆる角度から研究する学問として始まりました。当時の日本では、薬品となる生薬類をほとんど海外から輸入しており、その費用は莫大なものでした。将軍吉宗は、その国産化を目指して本草学に力を入れ、青木昆陽らに研究させました。本草学は国策として重視されましたが、次第に薬効を離れて自然物全般を見る博物学的な学問に発展してゆきます。源内はその中に身を投じたのです。
源内は、田村藍水を動かし、1757年(宝暦7年)から5回にわたり湯島で全国薬品会を開催しました。現在の物産会の嚆矢で、その記録は源内のつくった「会薬譜」で知ることができます。第5回には1300種あまりが出品され、海外オランダ渡りの物産もありました。源内は古代中国の「本草綱目」に倣い、物品を水、土、金、玉、石、草、穀、薬、果、木、虫、鱗、介、獣の14部門に分けて記述しました。木綿の紹介は大きな功績です。また人参と砂糖を重視しています。国益に貢献したいという強い思いがあったのです。源内は会主として一躍有名になりました。「解体新書」を翻訳した中川淳庵とも交友しています。高松藩は源内を再雇用して、他藩への仕官を禁じました。これが後々源内を苦しめてゆきます。
源内の研究では「芒硝」の製作がありました。ご存知の硫酸ナトリュウム・10水塩で、現在はガラス、パルプの製造、洗剤のビルダー、染料の希釈剤などに有用ですが、当時は利尿剤や消化の薬効で漢方に利用されました。伊豆の温泉から抽出、精製しています。また石綿(アスベスト)の布の製作に熱中しました。秩父の粥仁田峠で採集し、製織に苦労しています。秋田の鉱山開発にも参加しました。しかし本草学者としての活動は次第に苦しくなります。自由を求めて高松藩を離れたことで資金難に陥り、事業化に不得手の源内は、文筆活動やエレキテルの見世物などで稼ぐしかなく、何もかもが中途半端になって、溢れる才能に不満が募ってゆきます。ついに杉田玄白ら友人たちの不安が現実となりました。さる大名への普請企画書を酒席で紛失したことで町人と口論になり、殺人に及んで入牢した挙句、破傷風にかかってしまいます。あたら非常の人源内の、不遇のままの享年は52歳でした。「了」