- 微生物の生態系が崩れはじめた - 矢野真千子訳、河出書房新社2016年8月刊
著者はイギリスの進化生物学者で、マレーシアの野生生物調査に参加してダニに咬まれ、重い熱帯病にかかってしまいました。その治療に大量の抗生物質の投与を受けて、一旦は立ち直ったかのように見えましたが、今度は別のさまざまな病状に苦しむことになったのです。ここで彼女は、一連の膨大な抗生物質の投与が、熱帯病の細菌を全滅させただけでなく、もともと体の中にいた細菌までも絶滅させてしまったのではないかと疑うようになりました。自分の体が微生物のいない荒れ地になったことを実感したのです。
あなたの体のうち、ヒトの部分は10%もありません。ヒトの細胞1個につき他者の細胞が9個も乗っています。微生物は腸管だけでも100兆個も生息し、血や筋肉、脳や皮膚などのあらゆる部分に生態系をつくっているのに、その微生物を殺してしまったらどのような事態になるのでしょうか。著者は、あらためて共生微生物の研究を辿ることにしました。
ヒトゲノムの解明によって、ヒトの遺伝子は意外にも線虫とほぼ同じの21000個と判明しましたが、これはイネやミジンコよりも少ない数でした。しかし人体は微生物との集合体だったのです。その遺伝子の総数は440万個にも達します。これがマイクロバイオータのゲノム集合体で、ヒト遺伝子と協力しながら複雑な私たちの体を動かしているのです。
医療の進歩によって、先進国では感染症の脅威は過去のものとなり、平均寿命は大幅に伸びてきました。ところが近年はその感染症に代わって、これまであまりなかった病態が急増しています。豊かになるほど不健康になる、21世紀病との付き合いが始まったのです。
その正体は、やはり共生微生物のアンバランスにありました。免疫系組織の60%は腸にあり、とくに盲腸と虫垂に集中しています。あらゆる病気は腸から始まる科学的証拠が明らかになってきました。過敏性腸症候群はずばり腸の機能不全で、そこには抗生物質の投与によるかく乱がありました。肥満は先進国で深刻な問題になっています。これも遺伝子解析技術の進歩と無菌マウスの開発による実験で、ある種の腸内微生物が食べ物に含まれているカロリーを余分に吸収することがわかったのです。それは「カロリー摂取量対消費量」の法則を根底から覆すものでした。肥満マイクロバイオータの働きです。肥満は過食や運動不足のせいだけではなく、そこにもまた抗生物質が関わっていました。家畜に抗生物質を与えて太らせるのは、業界ではすでに常識でしたが、ヒトも同じだったのです。アレルギー、自己免疫疾患なども、乳幼児からの抗生物質による腸内微生物のアンバランスにありました。
腸は脳に直結して不安症、うつ病、自閉症などの心の病まで影響しています。無菌マウスで、冒険好きのマウスの腸内細菌と、臆病で心配性のマウスの腸内細菌を入れ替えたら、それぞれの行動がそっくり交代しました。性格までが腸内細菌に支配されていたのです。
ヒトは一生の間に、アフリカゾウ5頭分の重さに匹敵する微生物の「宿主」になり、微生物たちは互いに会話しながら働いています。人体は微生物生態系に満ちていました。「了」