ヒトとは一体、何ものでしょうか。著者は現代人の文明に捉われず、一切の先入観なしに自然史としての人類を追うことで、人間理解を深めようとしています。著者の自然人類学によれば、類人猿と化石人類はもとより、現代人についても生命体としての全体像が見えてくるというのです。その原点は、マダカスカルの原猿たちとの出会いにありました。
マダカスカルには実に多様な原猿類が、のびのびと暮らしています。彼らはどこから来たのでしょうか。対岸の東アフリカから漂着したという説がありましたが、それはありえません。かってアフリカには原猿類も霊長類もいなかった。霊長類の起源は9200万年前と推定されています。当時のインド亜大陸がその舞台でした。グレーター・インドと呼ばれたその大陸が北上したとき、マダカスカルが分離して原猿類の一部が取り残されたのです。ユーラシア大陸につながった霊長類は真猿類を生み出しました。その枝の一つが私たち人類になったのです。これは、近年の分子系統学によって明らかになったことでした。
現生の類人猿が歴史に登場したのは、2000万年前の気候温暖化時代のことです。この時期にアフリカとユーラシア大陸が繋がり、類人猿は多くの哺乳類とともにアフリカに進出しました。しかし1500万年前の地球規模の寒冷化と極乾燥化で一たん絶滅しています。ところが東南アジアではその影響は軽く、多くの類人猿がそのまま現代まで生き延びました。
アフリカに再び類人猿が現れたのは、今から1000万年前のことでした。第二世代の彼らは乾燥に強い生活様式を持っていて、断片的な森の間を移動できたと考えられます。まずゴリラが現れ、やや遅れてチンパンジーが分離しました。その環境は、東南アジアとは全く違う厳しいものでした。しかもその後さらに厳しい寒冷化が地中海地域にあって、この第二世代もまた絶滅してしまいます。アフリカ類人猿の復活は、温暖化の始まった600万年前になってからのことでした。この類人類第三世代で、ゴリラやチンパンジーのほかにアルデイピテクスという最古の人類が、440万年前にいたことがわかりました。1992年にエチオピアで東大の諏訪元さんが発見して命名したのです。その体格はがっちりしていて、身長120cm、体重51kg、脳容量は300~350ccでした。チンパンジーとほぼ同じくらいです。彼らは東アフリカの乾燥森林の出現した環境に適応し、200万年生きて、その森林が失われると絶滅しました。その直後に、かのアウストトラピテクスが草原地帯に出現します。
そこには明らかな断絶がありました。しかし生活の場ニッチは引き継いでいました。私たちが長い間探し求めていた、人類と類人類との進化の鎖の一つがここにあったのです。
160万年前に出現したホモ・エレクトウス類は、体格が頑丈で、重さ3kgもある石器ハンドアックスを遺しています。しかしこの石器で狩りをするほど敏捷ではありません。その用途は大きな謎でした。使用した痕跡がほとんど見られないのです。彼らはライオンなどが狩りをした大型動物の骨を食べていました。しかし死体の取り合いで、リスクがないわけではない。ここでの著者の仮説は愉快でした。彼らは、多分この大きなハンドアックスを両手で振り上げて、ライオンたちを威嚇したのではないかというのです。巨大な牙に見えてその威力は絶大だったことでしょう。それなら使用痕がないこともわかります。悠々と残った肉や骨を横取りできました。原人たちの化石にはビタミンAのとりすぎの証拠があるそうです。肉食動物の肝臓の食べすぎでした。彼らは強い王獣だったのです。
この王獣の直接の継承者であるネアンデルタール人も頑丈な体格で、50万年前からつい3万年前まで生きていました。私たちホモ・サピエンスとも20万年も共存しています。
最近のDNAゲノムの解明によって、アフリカ以外の現代人のゲノムの2.5%がネアンデルタール人由来であることが明らかになりました。しかもその遺伝子の流れは、ネアンデルタールの雄から、ホモ・サピエンスの雌への一方的のものだったのです。一般に二つの集団が出会ったときは、遺伝子は優勢な集団から劣勢な集団に移ります。ネアンデルタールのほうが優勢でした。身長は178cmもありました。脳容量もホモ・サピエンスより100ccも大きかったのです。それがなぜ絶滅してしまったのでしょうか。
南ヨーロッパにいて氷河期に直面した彼らは、毛皮をまとって狩猟に専念していました。火も使い、石器はつくりましたが、生活は保守的でした。野生動物のような厳しい生活だったでしょう。殆どすべての骨にケガや病気のあとがありました。当時豊かだった大型動物の狩りをしていましたが、イヌを使った形跡はありません。衛生面から病弱な個体でなく、健康な個体を選んで狩りをしていたので、その労力は多大なものだったのです。魚は食べませんでした。寒冷化したとき、生態系最上位者としての地位のために、その個体数がことさら少なかったのも絶滅要因の一つとみられます。ヨーロッパ全体でも4400~5900人程度でした。氷期を避けて南に向かっても、すでに新人たちがいて通れませんでした。
ホモ・サピエンスについてもその起源は、ミトコンドリアDNAから約20万年前のアフリカと確定しました。しかし当時の地球環境に特別の変化はなく、突然に新しい種が生まれたのです。その骨格は華奢で、しかも最も環境に弱い裸の皮膚でした。なぜ裸なのか。その謎にはダーウィンも悩んだようです。著者はここでも大胆な仮説を立てています。19万年前には、東アフリカの湖沼と川辺は豊かな魚類が群れていました。その環境は、現代まで続いています。陸の王者だったホモ・エレクトウスと競合することなく、水辺や水中で魚を獲り、海藻を食べる生活をしてゆけば、裸の皮膚こそより有利だったことでしょう。
この裸にはもう一つの利点がありました。顔の皮膚が薄くて、多彩な表情が出せたのです。裸の赤ん坊への微笑み、群れの社会的行動の進化にもつながりました。著者は、マダカスカルやボルネオ、さらにアフリカ奥地で霊長類と出会い、その表情から彼らの心に触れました。オランウータンは歌い、ゴリラは笑ったのです。ヒトはさらに言葉を得ました。
二度目の「出アフリカ」で、ホモ・サピエンスは紅海入口を渡りユーラシアに拡散して、約3万年前にシベリアと陸続きだった「新日本半島」に到着しました。しかしそこにはすでにホモ・エレクトウスがいたのです。最近の確かな旧石器研究は、その後のドラマを明らかにしてくれました。最終氷期最盛期直前のことです。北方からのホモ・サピエンスの流入が続き、道中で家畜化したイヌを伴って、彼らは新しい文化を創造しました。やがて豊かな自然に恵まれた縄文時代に入ります。ヒトの1億年のはるかな旅でした。「了」
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