「天皇陵古墳への招待」森 浩一著 2016年8月5日 吉澤有介

天皇陵古墳は、著者の終生の研究テーマでした。日本考古学の研究では、古墳の研究が大きなカギを握っていますが、その最も重要な対象である天皇陵は、皇室の祖先廟として、現在でも一切の立ち入り発掘が許されていません。そのもどかしさの中で、著者は多くの古代文献資料を手がかりに、周辺の古墳を詳細に実地調査し、縦横に格闘しながらその実態に迫っています。天皇陵の被葬者の比定は、927年に完成した延喜式以来、さまざまな議論がありましたが、その多くに重大な疑問が残されていました。著者は独自の見解を示して、後進研究者らのさらなる奮起を期待しています。
大阪の堺市にある百舌鳥古墳群は、戦前の地元中学生であった著者の考古学の出発点でした。延喜式でいう百舌鳥耳原南、中、北の三陵で、このうち中陵は長らく仁徳陵とされてきました。ところがそのすぐ東に、やはり巨大な前方後円墳のニサンザイ古墳があり、陵墓参考地になっています。これでは三陵の被葬者とされる仁徳、履中、反正がそれらの古墳のどれかは確定できません。著者はその疑問から、天皇陵の名称を古くからの地名で呼ぶことを提唱しました。伝仁徳陵を大山陵とし、すべての古墳名もそれに倣っています。
江戸時代の大山古墳は、堺奉行や大坂城代によって保護されてきました。文久の修陵でも原型はほぼ残されたと見られます。二重濠を持つ前方後円墳でした。ところが明治5年に時の堺県令税所篤が、勝手に前方部を発掘して、石室と石棺から多くの埋葬品を取り出したのです。現在その一部がボストン美術館にあって、そこには大きな謎がありました。
被葬者についても著者は慎重です。おそらく允恭か。仁徳は現履中陵の陵山古墳だろう。
反正は田出井山古墳の根拠があるので、履中はニサンザイ古墳かも知れない。これらの百舌鳥古墳群を造ったのは、石津川流域にいた土師氏でした。大山古墳に次ぐ第2位の巨大
古墳の伝応神陵の誉田山古墳のある河内古墳群も造った、当時の最先端の土木技術集団です。土師氏は後に菅原氏と大江氏に別れ、それぞれから菅原道真、大江匡房が出ました。
河内の古墳群にはヤマトタケルの伝承があります。戦後はその実在が疑われていますが、仁徳紀に白鳥陵に陵守がいたといい、702年8月には地震で崩れたという記事もあって、一概に否定はできません。最近その陵の候補とも見られる津堂山古墳の濠から、精巧な水鳥の埴輪が出土しました。仲哀紀には天皇が父の日本武を偲んで越から白鳥を取り寄せたとあるのです。その仲哀は九州遠征で奇妙な死に方をしました。神功皇后は子の応神とともに東進して、日本武の子である忍熊王兄弟を破りました。忍熊王らは政権の正当性を主張して、仲哀のために明石に五色塚古墳を造ったのに敗死したのです。応神は河内の豪族となっていた景行の孫姫に婿入りして中王朝を立てました。誉田山古墳にも謎が多いのです。
継体陵が伝承の太田茶臼山古墳でなく、今城塚古墳であることはすでに確認され、高槻市史跡として公開されていますが、宮内庁は未だに認めていません。なぜでしょうか。
著者はさらに欽明から推古と続く終末期の天皇陵古墳を丹念に追っています。ただ最古の箸墓古墳や伝崇神陵については極めて慎重で、今後の発掘を期待していました。「了」

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