「川の文化」北見俊夫著 2016年7月29日 吉澤有介

島国日本は豊かな川の国です。海のない地域があっても、川のない地域はありません。川の流域は、人間が自然とどのように対立し、あるいは融合してきたかをみる最適の場所なのです。川はそれぞれ独特の表情を持っています。川の姿を手がかりに、周囲の村や町をみてゆけば、その地域の歴史や発展の様子が読み取れることでしょう。川は日本文化の母であり、人間生活にも多様な関わり方をしています。その両岸は文化を隔てる境界線となりますが、縦の線として働けば上下交流の通路になります。日本民族は、海から浜辺にたどり着き、やがて川を遡上して豊かな地を見つけて住み着きました。海から遠く隔たった信州安曇平野の奥に聳える穂高岳は、かって海人の宰領であった安曇連一族の祖先である穂高見之命の鎮座に見立てて命名されたと伝えられています。
ここで川の交通の歴史を追ってみましょう。具体的な物的生活面における川の営みは、さまざまな民俗文化を育ててきました。まず舟運ですが、その始まりは丸木舟で、内陸の川か湖からだったと考えられます。木材の豊富な川上で生まれたらしいのです。新潟県北部の朝日岳の山中にある三面部落の古い神社の床下から、丸木舟がほぼ完全な形で見つかりました。地域の人々は、それを単にフネとかワタシと呼んでいたそうです。東北ではエグリと呼ぶ地域もありました。それが各地で発展して、やがて京都に高瀬舟が生まれました。本書は、その川舟の歴史を全国各地に丹念に追い、貴重な資料になっています。
また運送の面では筏流しがありました。利根川水系では、木材と竹材輸送の二つがあり、木材は直接江戸深川の木場問屋へ、竹は野田の醤油業者に供給されていました。山で伐採した材木は、柴床を滑らせて谷川に下ろし、堰を作って水を溜めて浮かべ、人夫がそれを鳶口で引き出して次の堰に落とす。それを繰り返して、本流に集めました。「管流し」といいます。それを農閑期に筏に組み、その一乗は木材約30石で、筏師2人が乗りました。竹筏では、40~50束をヒトッキリといい、それを4~5キリ藤ツルで繋ぎ、2人で流しました。筏は下流に来ると二つを繋ぎ、2人を帰して採算が取れるようにしました。幕末から明治にかけての最盛期には、川舟交通の邪魔になると嫌われるほどだったそうです。
川の渡り方では、「瀬踏み」という言葉があるように、初めは渡渉していました。しかし大川になるとそうもゆきません。東海道の川越え専門業者は有名です。各地では渡し舟が用いられ、舟を繋いだ舟橋に、そして橋がかけられます。橋は不思議な場所でした。川を堺にした通路で、外部からいろいろなものが入ってきます。橋の袂には神社を祀る風習があり、橋姫などの伝説も生まれました。人柱も神と人を結ぶ尊い犠牲だったのです。
川は人や物が行き交う交通路であるばかりではありません。神々の通路としても人間文化史に重要なな意味を持っていました。川の源流に山があります。山は林業や山菜、または狩猟など、さらに灌漑用水の元として古くから山の神信仰を生んできました。川の氾濫は山の神の怒りによるものでした。神は川を下って海へ、さらに天に昇ってまた山に帰るという自然循環の観念に発展していったのです。歴史学と民俗学に学ぶ好著でした。「了」

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