—権力者たちの宗教建築—-
著者は東大工学部、大学院を出た建築家で、東大助手の後独立して建築設計事務所を主宰、東大ほかの大学の講師を歴任しながら、建築をとおして政治史、宗教史、文化史の見直しをしています。伊勢神宮や法隆寺の謎についての著書で注目されました。
人類が長い時間をかけて蓄積してきた世界観/死生観は、宗教建築として具現化されてきました。著者は世界の宗教建築を探訪して、もっとも心を惹かれた東大寺の大仏、インドのストーバ、ローマの円形神殿を重点的に取り上げています。そのわけは次の点でした。なぜこんなに巨大なのか、この不思議な形は何か、真ん中に何があるのか、またはないのか、この至福の一体感は、いったいどこからくるのだろうか。
この三つの宗教建築には重要な共通点がありました。いずれも国家の最高権力者がその建造に深く関わっていたことです。かれらにとって宗教建築の造営は、理想とする国家の形成と運営に不可欠な事業でした。ここではとくに東大寺の大仏を見てゆきましょう。
わが国が誇る世界遺産で、その名は(るしゃな仏)といいます。光が神格化された、光輝くほとけで、密教でいう大日如来です。華厳経によると宇宙を生み出し、かつ宇宙そのものだといいます。釈迦仏はその化身で、教えを説く役割を演じます。大仏の高さはほぼ15mと、とにかく巨大です。この大仏建立の詔を聖武天皇が発したのは奈良時代743年のことでした。工事には延べ260万人が関わった国家の命運をかけた大事業で、752年に開眼供養が行われました。なぜこれほど巨大なのか、そのルーツは、中国竜門石窟にあったといわれます。則天武后が自分に似せてつくらせた高さ17mの彫像で、無限大の宇宙を示すために可能な限りの巨大さでした。その情報が遣唐使から伝えられていたのです。
このころのわが国は、未曾有の国難に遭遇していました。旱魃による大飢饉、頻発する大地震、それに天然痘の大流行などです。聖武天皇は日本各地の神々に祈りましたが、一向に効果が無いためこの新しい宇宙の神(仏)に縋るしかありませんでした。したがってその大仏は巨大でなければならなかったのです。数々の失敗の後、聖武みずからも袖に土を入れて運ぶなどして工事に参加し、さらに出家までして開眼を強行しました。そして最後に祈ったのはアマテラスでなく、知られざる一地方の宇佐八幡神だったのです。銅の鋳造技術を持った渡来系の人々の神でした。よほどこの建立が困難だったのでしょう。
また大仏建立は、その後の畿内の伽藍建設ブームとともに、環境を大きく破壊しました。周辺の豊かな森は禿山になり、著しい災害を引き起こしたのです。銅を採掘した長門の長登銅山の鉱毒があり、さらに鍍金作業での水銀投入は平城京を荒廃させて、そこから逃れるために平安京に遷都したという説もあります。「続日本記」は黙して語っていませんが、絶対的な宇宙仏である大仏建立という国家最大の慶事は、悲惨な犠牲を伴っていました。
著者の旅は、奈良の大仏の巨大さへの驚きから、その原点を求めて中国よりインドのストウバへ、さらにギリシャからローマに及び、ハドリアヌス帝のパンテオンの円形ドームでは、宇宙の神と交流する東西共通で人類普遍の世界観を深く考えさせてくれました。「了」
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