著者は、国立歴史民俗博物館(歴博)で、弥生時代についてのこれまでの常識を覆す、大きな研究成果を上げました。この50年間に進歩した高精度のAMS炭素14年代測定法によって、弥生時代が紀元前10世紀にすでに始まっていたことを確認したのです。それまでの炭素14年測定法では、土器などに遺された少量のススなどの資料は測定できず、またデータの換算法も誤っていたため、弥生時代の開始はおおよそ前5世紀ころとしていました。歴博の発表によって、日本の水田稲作の遺跡が5百年も遡ることになったのです。
本書では、水田稲作を指標とする弥生時代の見方を、大陸(主に朝鮮半島)との関係、縄文時代との重なり、古墳時代への移行という流れも見直し、日本列島全体を網羅して捉えています。またAMSは、その間の気候の細かい周期的変化をも明らかにしました。
朝鮮半島南部では、キビやアワなどの畑作が約6千年前からありましたが、前11世紀に水田稲作が始まり、農耕社会が成立して身分が階層化し、支石墓をつくるような有力者が出て、戦いも起きました。日本には、これまで戦いに破れた人々が仕方なく玄界灘を渡ったとされてきましたが、著者は、その体制を嫌った人々の、新天地を求めたメイフラワー号であったと見ています。北九州の最古の水田は低湿地ではなく、初めから森林を拓き、水路を設ける高度な技術によるものでした。縄文人は自然を改変しません。新技術は見よう見真似でできるレベルではない。水田は青銅器を持って渡来した人たちが造ったのです。その後、百年ほどで社会が質的に変化し、環濠集落が現れます。有力者が出て争いが始まりました。前9世紀の、石の矢じりが突き刺さった最古の戦死者が発掘されています。
水田稲作は前8世紀末になると、玄界灘沿岸地域を出て、各地にゆっくりと広がり始めました。前7世紀前葉に山陰や大阪湾あたり、奈良盆地や伊勢湾沿岸は前6世紀に到達します。その先は日本海経由が早く、4世紀初めには青森県弘前付近、仙台平野でも水田稲作が伝わりました。太平洋側はすこし遅れて、関東南部は前3世紀になってからでした。
これらの地域の在来民は、縄文文化の畑作の要素も色濃く残す園耕民になってゆきます。土器文化については、縄文、弥生の並存期間がありました。土器による編年をAMSで見直すと、在来民は水田耕作民と交流しながら、縄文の祭りを伝えていたこともわかりました。
また奄美、沖縄諸島では、前10世紀から珊瑚礁という生態系に特化した後期貝塚文化が始まり、弥生人と貝製品で交流していました。弥生時代には複数の文化があったのです。
前3世紀になると、北九州で朝鮮半島南部からの鍛造鉄器が増えてきます。ところが同時に日本の弥生土器が朝鮮半島嶺南地区に渡っていて、両地区にまたがる倭人の動きがあったとみられます。1世紀後半、本州、四国、九州の大部分は弥生後期社会に入りました。
2世紀の倭国の乱は、鉄の入手を巡る九州北部と吉備・近畿諸国の戦いで、後者が勝利した結果、政治の中心が近畿に移ったのです。しかし鉄器の利用はまだ北九州が圧倒的で、生産活動も盛んでした。奈良盆地での巨大古墳の出現は、地域連合をまとめた宗教的権威の力が、経済より上位にあったことを示しています。弥生時代を学ぶ好著でした。「了」
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