「思索の源泉としての鉄道」原 武史著 2015年5月16日 吉澤有介

著者は明治学院大学教授です。日本政治思想史が専門ですから、鉄道の話は畑違いですが、仏文学者の森有正の著書「思索の源泉としての音楽」に倣って、自ら鉄キチの本を書いたとのことです。著者の鉄道への思いは格別のものでした。それは3.11の震災後の三陸鉄道に対する見方でわかります。東北新幹線の開業以来、太平洋沿岸の各路線は、JR東日本からは、ほとんど見捨てられた状況にありました。その中でもとくに冷遇されていた三陸鉄道が、震災で最大の被害を受けたのです。それが第三セクターの懸命の努力で、5日後には早くも一部開業しました。経済合理性とは異なる思想がそこにあったからです。これに対してJR東日本は、新幹線の復旧はしたものの、三陸にある在来線などは、路線を移す案を検討するばかりで、復旧を後回しにしたままです。
しかしこれは日本の鉄道史上未曾有の事態なのです。1923年9月1日の関東大震災の際には、関東地区の鉄道の被害は甚大でしたが、当日の午後に総武本線が開通したのをはじめとして、10月末にはほほ全線が復旧しました。また1945年3月10日の東京大空襲でも、14日には復旧しています。95年1月の阪神淡路大震災でも、5ヶ月後には全線が復旧しました。三陸の鉄道事情は、やはり採算優先の経営思想によるものでしょう。
著者は、鉄道がただ早ければよい、単なる移動手段だという思想に大きな疑問を呈しています。これは全国を旅した柳田國男が、早くから指摘していたことでした。窓からみる景色の美しさと、そこにある村の暮らし、さらに車内での人々とのふれあいなど、ただ急ぐことがどれだけ損かというのです。著者はその対極にあるリニアを思索しています。
また西日本に神功皇后にちなむ駅名が多いことに触れています。戦後、皇后の実在は怪しくなりましたが、その伝説まで消えるわけではありません。その例をみてみましょう。
武庫川、御影、唐櫃台、三木、西広島(己斐)、厚保、安岡、幡生、姪浜などです。
首都圏の私鉄にも秘話がありました。太平洋戦争開戦直前の1941年春、柿生、鶴川界隈に「柿生離宮」を造営する計画がありました。離宮は名目で、皇居の移転疎開です。ここには古くからの大和の地名が多く、三輪、奈良、香具山などがあるのです。計画は、ひそかに視察した宮内大臣松平恒雄が中止を命じて終わったそうです。その翌年、この地に関心を持った柳田國男のすすめで、白洲次郎正子夫妻が住み着いて武相荘と名づけました。
著者は、海外の鉄道にも思索をめぐらせています。とくに2013年に、ユーロスターでロンドンから日帰りでパリを往復した印象は強烈でした。単に所要時間を短縮しただけでなく、国境そのものが消えた思いがしたのです。これを日本に当てはめてみると、宗谷海峡、間宮海峡を結んでロシアと、また対馬海峡を海底トンネルで結ぶと韓国と、全通すれば、日本海を取り巻く大循環線が開通するという壮大な夢につながります。技術的には十分可能なことなのです。その場合、東アジアの平和と安定に寄与することは確かでしょう。
さらに東海道本線に内田百間のいう「特別阿呆列車」を走らせる熱い夢を語っています。復活した?「つばめ」の架空乗車体験記は、三四郎もどきの実に楽しい話でした。「了」

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