「古代日本外交史」廣瀬憲雄著 2015年4月25日 吉澤有介

― 東部ユーラシアの視点から読み直す ―
本書の特徴は、表題が示すように日本古代の政治的な外交関係を中心とした通史ですが、これまでの「東アジア世界」論に基づく通史とは異なり、新たに「東部ユーラシア」という概念を提唱して、著者自身の実証研究を中心に構成したところにあります。
著者によれば、現在の歴史学をめぐるもっとも重要かつ困難な問題は、世界史構想の再度の体系化にあるといいます。現在の日本における世界史構想は、1950年代から60年代の、ヨーロッパがアジア・アフリカを支配するという現実世界を背景として、近代世界の成立過程を欧米世界による他世界の包摂を中心に構成しています。しかしこの50年ほどで、世界史の終着点は大きく変質しました。中国などアジア諸国が台頭してきたからです。
とすればここで「現実世界」に合う新たな「世界史の終着点」が提示されなくてはなりません。歴史学とは、「問題解決の学」であり、その役割は、「現代が抱える諸問題に解を与えること」です。しかし過去を研究することで現代・未来を捉えようとすると、必然的に歴史像をゆがめてしまいがちになります。都合の良いことしか見なくなるのです。その弊害を避けるには「実証研究」しかありません。著者は一貫して実証に徹しています。
戦後の歴史学では、「冊封体制」論や「東アジア世界」論などが盛んになりました。中国王朝が、周辺諸勢力の君長に「冊」を授けて君臣関係を結ぶという秩序の成立に注目したのです。「東アジア世界」論では、各地に独自の自律性と完結性を持った複数の「世界」が共存したが、その文化も「冊封体制」を媒介として伝播していったとしました。その枠組みの中に日本のはじまりがあったと説明したのです。
しかし詳細に検討してみると、その中国王朝中心の体制はごく一時的なものでした。北の遊牧民や西域諸国とは、絶えざる緊張と友好の対等関係があったのです。玄宗皇帝の唐が最も重視したのは、西のチベットと北の突厥で、軍事力でも唐と肩を並べていました。ここには中心‐周辺という上下関係はありません。一方、東の新羅や日本などは、それぞれ「小帝国」を形成していたものの、唐からの格付けは低かったのです。
そこで著者は、今後の新たな歴史像の枠組みとして、東アジアではなく、壮大な「東部ユーラシア」という地域設定を行いました。パミール高原以東として、チベット高原、モンゴル高原の勢力を含めたのです。その地域の外交関係は、南の農耕王朝と北の遊牧王朝の両者、時期により西の遊牧王朝も含めた三者の関係を中心に展開すると考えるのです。
著者はその実証の切り札として、外交文書と外交儀礼に注目しました。304年に始まった五胡十六国時代から第一次南北朝時代にかけての歴史展開における、倭国の対朝鮮半島、対中国王朝外交の背景がより明確に理解できるのです。そこには複数の国際関係における秩序が存在していました。本書では、倭国のその後の外交の推移を詳細に述べています。倭の五王後の対中国外交の終焉、乙巳の変の舞台にみる儀礼、白村江の戦い、律令制の導入など、倭国は次第に独自の方向に進んでゆきました。東部ユーラシアという枠組みは、現代社会で進行している諸問題へのヒントにもなることでしょう。「了」

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