「ヒトはどうして死ぬのか」田沼靖一著 2015年3月18日 吉澤有介 

- 死の遺伝子の謎 -
これまでの生化学、分子生物学の世界では、研究はもっぱら「生物の細胞がどのようにして増殖・分化するか」ということ、つまり「細胞がどのようにして生きているか」を解明するために行われてきました。そこには「死」を科学的にとらえる視点はなかったのです。ところが1972年、病理学者J・F・カーの、細胞の死「アポトーシス」の発見によって、「生」や「死」の見方が大きく変わることになったのです。細胞には2通りの死に方がありました。一つは、打撲や火傷、心筋梗塞などの一般的な事故死で、「ネクローシス」と呼ばれます。壊死ともいいます。一方「アポトーシス」は、細胞の「自殺」で、周囲からの「あなたはもう不要ですよ」というシグナルや、「自分は異常をきたして有害な細胞になった」と察する総合的判断によって、予め遺伝子に組み込まれていた「自死装置」を発動するのです。細胞はまず自ら収縮し始めます。そして核のなかのDNAを規則的に切断し、ちいさな断片となって免疫細胞などに取り込まれて、きれいに消えてしまいます。
細胞が自ら死んでゆく現象は、オタマジャクシの尾や、チョウからサナギへの脱皮などでよく知られていました。ヒトの手も、生えてきたのではなく、丸い塊から指の間の細胞を消去して削り出したのです。細胞の「死」が「生物」を形作ったといえるでしょう。
アポトーシスは、生命維持に重要な役割を果たし続けています。人間は毎日200g(ステーキ約1枚分)もの細胞が死んで、その分だけ新しい細胞ができています。これが新陳代謝で、細胞の分裂・増殖のバランスを保つ「生体制御「の役割を持っているのです。それが異常になったのが「ガン細胞」で、修復が間に合わないと増殖が進んでゆきます。
このようなプログラムされた死は、すべてがアポトーシスによるわけではありません。細胞には、分裂・増殖する「再生系」と別に、殆ど増殖しないで生き続ける「非再生系」があります。後者の代表が、脳の中枢神経細胞や、心臓の心筋細胞などで、生命の維持に特に高度な役割を持っており、その死はそのまま個体の死となるのです。つまり寿命です。
再生系の細胞も、その分裂の回数には上限があります。ヒトでは50~60回で、いわば回数券です。そして非再生系では、耐用時間に限度があります。これはまさに定期券でしょう。回数券の残り枚数、定期券がいつ切れるのかは、環境や生活要因次第です。なおガン細胞は再生系の細胞からしか生まれないこともわかりました。「死を忘れたガン細胞」に、本来持っていたアポトーシスの死ぬ力を呼び起こし、ガンを克服するという発想で、新しい治療薬「ゲノム創薬」の開発が進んでいます。これまでの手探りの総当り実験による探索ではなく、異常の原因となっているタンパク質の構造に合う化合物を設計して、アポトーシスの正常なバランスをとるもので、開発効率が断然高まるというわけです。
「死」はもともとあったのではなく、始原生物では無限に増殖していました。約10億年前、環境変化に生き残るために2倍体生物が誕生して「性」が現れたとき、遺伝子は受精の都度シャッフルされ、新しく組み換えられると同時に、不適応の要素を排除する「死」がセットされました。生命の進化には、消去というプログラムが必要だったのです。「了」

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