「山の博物誌」西丸震哉著 2014年8月16日 吉澤有介

   著者の本職は、農水省の食品総合研究所の室長でしたが、それ以上に登山家、自然学者として、また画家、作曲家、エッセイストとしても多彩な活動をしてきました。名前の由来は、関東大震災の直後に生まれたので、祖父が震哉と命名したのだそうです。

 本書は、山の自然についての愛情に溢れたガイドブックで、初出から数えると半世紀にもなりますが、現在でもなお少しも色あせていません。山のけものたち、トリや昆虫に魚、花や樹木はもちろんのこと、地形や気象など、著者自身が山で出会ったさまざまなエピソードとともに、あますところなく語られています。

 私も早くからこの著者に惚れ抜いて、大方の本を愛読してきましたが、久方ぶりに本書に再会して、あらためて深い感銘を受けました。巻末に索引があるので、この一冊は山の自然を学ぶ最高のガイドブックといえるでしょう。ありのままの自然を知ると同時に、人間と自然の付き合い方に深い示唆を与えてくれるのも本書の大きな魅力です。

 クマにばったり出会った話など、内容を挙げるとキリがないので、著者の不思議体験を一つだけ紹介しましょう。木曽御岳の三の池のほとりに、亡くなった友人たちを偲んで幕営したときの話です。ここで御岳講の人たちが人魂さまに会えるという、古くからの言い伝えを確認するためでした。良く晴れて風があり、月のない真夜中に出るというので、カメラと捕虫網を持って待ち構えていると、あたり一面に見えてきたのです。大きさは握りこぶしくらい、明るさはようやく見えるくらいですが、その飛び方の活発なこと、捕虫網を一振りして人魂さまを捕らえたと思った瞬間、網の底から何の手ごたえもなく抜け出られてしまいました。写真をあきらめてハンゴウを持ち出し、手近かにきたヤツを機敏にかぶせた、と思う間もなく人魂さまはハンゴウの底を突き抜けて行ってしまいました。

 著者はここではじめてこの連中は物質でないことを知ったのです。立っていると、あわてん坊の人魂さまが足元にぶつかって、景気よく跳ね返って行きます。何の抵抗も感じませんが、どうやら生き物は素通りできないようなのです。そこで対策を考えました。今度来るときは容器に酵母の膜を内張りしてみよう。きっと世紀の大実験になる。うまく行けば新しい科学の時代を拓くことになるに違いない。科学とは未知なる領域への探検以外の何ものでもないことを、あらためて知ることになるだろうというのです。

 御岳三の池は、表面排出口のない高山湖で、含有物が1リットルあたり3.8ミリグラムで、世界で最も少なく、御岳行者が霊薬とするに値する醇良さです。私も先年ここを訪れて、白装束の行者たちが霊水を汲むのを見て、一口頂いたことを思い出しました。

 また研究所の運動会で、目隠し競争をした話も痛快でした。野獣本能を修行した著者は、迷わず目標に到達したのです。霧に巻かれて視界が奪われたとき、人間がどんな方向に歩いてゆくかの実験で、リング・ワンデルングの検証もしています。科学者なのですね。
 著者は残念ながら20125月に亡くなりました。信州木崎湖畔に西丸震哉記念館があるそうです。合掌。「了」

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