「木の文化をさぐる」小原二郎著 2014年4月1日 吉澤有介

   著者は宮大工の故西岡常一棟梁とは長年にわたる親交がありました。木の文化について書いた西岡棟梁との共著「法隆寺を支えた木」は、中学校の国語教科書や道徳の教科書にもなっています。

 日本の造形文化は、建築も彫刻も工芸も木を基調にして成り立っていました。そのねらいは、いずれも木のいのちを生かすことにあったのです。人間はもともと木と同じ、大自然の一部でしかありません。しかし近代の機械文明に流されて、私たちはいつしか人間中心の考え方になって、さまざまな環境問題に直面することになりました。著者はここで木の文化に込められた古来の叡智を見直し、何百年も生き続ける木という生物材料の魅力を挙げて、21世紀は生物文明の時代となることを強く願っています。

 著者の研究のスタートは、広隆寺弥勒菩薩の秘密を探ることでした。広隆寺には2体の弥勒像があります。一つは国宝第1号となった宝冠弥勒で、もう一体は通称泣き弥勒です。書紀の記載から、どちらかが朝鮮渡来ではないかといわれていましたが、著者がそれぞれの躯体の中から小切片をとり、顕微鏡で樹種をみたところ、宝冠がアカマツ、泣き弥勒がクスノキと確認しました。朝鮮には用材としてアカマツしかない。クスノキは日本だけしかありません。それに日本ではアカマツはヤニが出るため木彫には使わず、すべてクスノキが使われていました。前者が渡来、後者がそれをモデルにした日本製と判明したのです。

 それ以来、著者は各時代の仏像750体の樹種を調べ、日本の木の文化の流れを追いました。飛鳥時代は木彫、奈良時代は金銅、粘土、乾漆が主流でしたが、平安初期からはほとんどが木彫に変わり、ヒノキの白木かその寄木造りになっています。一方平安時代には広葉樹の仏像もありました。唐招提寺に中国から来たチャンチン(センダン科)です。そこで日本では一時、同じセンダン科のオウチが使われました。ところがその後オウチはさらし首の台に使われるようになりました。著者はその理由についても推論しています。

 他の用材としては、舟はクスとスギでしたが、古墳から出た木棺の用材には、例外なくコウヤマキが使われていました。日本特産のコウヤマキは湿気に強く、腐りにくいのです。それが朝鮮にも輸出され、百済の武寧王の木棺になっています。文化交流の証でした。

 薬師寺五重塔の再建に当たった西岡棟梁によると、すべての部材が1本として同じ寸法のものがなかったそうです。1割以上のバラつきがありました。それを組んであの美しい形を造り、1300年の風雪に耐えて、地震にも倒れませんでした。木は生物ですから、人に人柄があるように、木にも木柄があります。それを組み合わせるところに秘訣があったのです。再建した西塔は、東塔より30cmほど高くしました。千年後に同じ高さになるそうです。東大寺などの社寺や、江戸城などの用材輸送の記録も興味深いものでした。
 著者は木の魅力を論じて、住宅建築には工学的物差しでなく、生物学的物差しを薦めています。最近の住宅のガラスとコンクリートの空間が、ヒトを自己家畜化して環境耐性を弱めているというのです。日本文化の柔らかい住み方を見直す貴重な提言でした。「了」

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