現代社会は、専ら利己主義がはびこっているように見えます。しかし、人はしばしば自分の身を危険にさらしても他人を助けようとし、困っている人を助けたいと願います。この利他的感情はどこから生まれてくるのでしょうか。その行動を駆り立てるものは、本能なのでしょうか、学習によるものなのでしょうか。本書では、脳科学、遺伝学、分子生物学などの最新の知見を交えて、ヒトという生物、ヒト社会の本質を迫っています。
2006年、アメリカのペンシルバニア州で、敬虔な生活を送っているアーミッシュの村で、事件が起きました。凶悪犯が銃を持って、幼い子供たちを人質に立てこもったのです。そこで一番年長だった13歳の少女が、ほかの子たちを助けて欲しいと進んで撃たれました。次々に子供が進んで撃たれ、犯人は自殺したそうです。全米に大きな衝撃を与えました。
小さな子供たちが、なぜこのような利他的な崇高な行為をしたのでしょうか。学習していたとは思えません。ヒトには本能的に、利他的感情が備わっていたのです。
著者は、さまざまな角度からこの本質を探ってゆきます。ヒトの行動は性格に大きく左右されます。性格については早くからクレッチマーが、体格との関連を提唱しました。最近は、もっと客観的な分類法が確立しています。それは五つの項目、外向性、協調性、誠実性、情緒安定性、知性で、遺伝と環境によって決まるとされます。つまり本能と学習ですが、その境界は微妙です。最近の学説では、持って生まれた本能(遺伝)の範囲内で学習効果が得られるのだそうです。いわゆる3歳児神話は、その効率を述べたものでしょう。
これを脳の働きから見てゆくと、前頭葉が、人間を人間たらしめる領域とされています。人間らしい感情や、倫理的、道徳的な感覚もここにあります。しかしそれが整うのは25歳くらいになってからのことです。ドーパミンやセロトニンなどの影響も知られてきました。
ところが2005年、シンガポール大学から衝撃的な論文が発表されました。母親の脳には、なんと胎児の細胞が入り込み、入り混じっているというのです。その経路はわかりませんが、とても考えられないほどの厳しい関門があったはずです。マウスの実験によると、母親の脳細胞1000個に1~10個もあり、刺激するとその場所に集ってくることもわかりました。多くの哺乳類にみられる母親たちの熱い感情、自分と子供との一体感は、きっと彼女の脳にある胎児の細胞にあったのでしょう。人類が生き延びてきた根源は、その母性愛であり、それが他者への愛情、利他的な感情や行動につながっていったものと思われます。
いま地上に生きている動物たちは、すべて生命誕生以来、幾多の苛酷な環境を切り抜けてきたものの子孫です。したがって生き抜くための術は、すべての動物たちに本能として遺伝子に刻まれていて、生きるためにまず自分を優先させる、利己的であることは極めて自然なことです。一方、動物が群れて暮らすようになると、仲間への気遣い、協力や援助という利他性が子孫を増やすことにつながり、もう一つの本能として定着しました。しかもその起源は、ずっと古くからの母性本能から生じたと考えられます。人は利他によって心の満足を得ます。利己と利他のバランスこそが、良い生き方につながるのです。「了」