「ダ・ヴィンチ封印{タヴォラ・ドーリア}500年」秋山敏郎著 2013年11月1日 吉澤有介 

 20121127日、イタリア政府は、1枚の板絵「タヴォラ・ドーリア」が、日本の東京富士美術館から寄贈されたと、ローマで発表しました。
これは日本では報道されませんでしたが、ダ・ヴィンチの幻の代表作が母国に帰った歴史的瞬間でした。イタリア政府は、その見返りとして、長期にわたりイタリアの国宝級美術品を、日本に向けて無償で貸し出すと報道されています。とすればそれだけでも数千億円の価値に匹敵することでしょう。

 著者は偶然の出会いから、1992年にミュンヘンでこの幻の名品を購入し、日本に輸出していたのです。
本書では、その数奇な運命を辿った名作の由来が詳しく語られています。

 一般にダ・ヴィンチの絵画の代表作は、モナ・リザとされていますが、実はそうとは言えません。モナ・リザはフランス王家に300年も秘蔵されて、一般に公開されたのは19世紀になってからでした。ダ・ヴィンチが現代まで美術史に大きく影響したのは、この名作「タヴォラ・ドーリア」だったことは、専門家の間では常識となっています。

 その作品とは、1504年にフィレンツエ共和国大統領書記官マキアヴェッリの依頼を受けて、国会議事堂(現在のヴェッキオ宮殿)大広間の右面の壁画として制作したものでした。左の壁面はミケランジオの受持ちで、二人の天才が腕を競うはずだったのです。その依頼の趣旨は、当時フィレンツエを支配して専横を極めたメデイチ家を追放して共和国を建設した、市民たちの高い理念を象徴することでした。ダ・ヴィンチがここで選んだテーマが「アンギアーリの戦い」で、騎士と歩兵たちが壮絶な戦いをしている場面です。しかしその原画を大きな壁画に移そうとした時点で、復活したメデイチ家が逆襲して、共和国はあえなく滅亡してしまいました。壁画は中止となり、原画の板絵は一時、勝利したメデイチ家で公開された後、敵意ありとして放出されて、トスカーナ大公を経て名門貴族のドーリア家に渡ったのです。以来この絵は「タヴォラ・ドーリア」と呼ばれ、ルーベンスが模写するなど多くの画家に強い影響を与えることになりました。(サイズは86115cm)

 そもそもこの名作が生まれた背景にあったマキアヴェッリの本意は、当時のローマ法王の息子であった軍事・外交の天才チューザレ・ボルジアを高く評価し、フィレンツエに迎えたいということでした。マキアヴェッリは共和国の書記官でありながら、チューザレの政治顧問でもあったのです。そしてダ・ヴィンチもまたチューザレから請われて軍事顧問として雇われていました。稀代の天才3人が固く結ばれていたのです。その意図をこめた作品ですから、来るべき近代戦の凄惨さを予言したともいえる名作になりました。
 ところがこの作品を巡って、学者や関係者たちの思惑から模写説が根強くありました。評価が大きく揺れる中で、第2次大戦中イタリア政府が、資金難から模写と決め付け、同時に国宝に指定するという詭弁にドーリア家が破産し、作品は戦後の混乱をさ迷いながら、ミュンヘンに辿り着きました。近年の科学的鑑定も行われ、ダ・ヴィンチの代表作と確認されましたが、イタリアの国宝とあれば常に没収のリスクがあります。しかし本書では、著者が購入した経緯や、金額は一切語られていないので、謎は深まるばかりでした。

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「了」

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