古事記1300年特別展「出雲—聖地の至宝」
これは見逃せないと久しぶりに上野のお山に出かけました。やはり期待にたがわず見応えがありましたね。今に残る古事記や出雲風土記の最古の写本から始まる展示室では、出雲大社から出土した「宇豆柱」が圧巻でした。直径130cmもあるスギの樹3本を束ねて3mの1本の柱にしたものです。年輪年代測定や文献で、創建から千年後の1248年に建てられた鎌倉時代の出雲大社本殿の柱と見られていますが、千家に伝わる図面と一致しているので、創建当初の規模と同じものなのでしょう。古代からいわれてきた本殿の総高16丈(約48m)が、事実だったことが窺われるのです。その古代本殿の10分の1の復元模型が展示されていました。現在の本殿の3倍の高さに相当するのだそうです。「宇豆柱」で高さは足りたのでしょうか。古代の建築技術にはただ驚くばかりでした。
また加茂岩倉遺跡で発掘された銅鐸39個のうち、16個が展示されていました。当初の輝きを復刻品でみると、シカやトンボなどの絵の下に渦巻き模様が描かれています。これはやはりもとは鐘として鳴らしたものが祭器に変わっていったものでしょう。渦巻き模様はアイルランドのケルト遺跡とそっくりでした。
荒神谷遺跡で見つかった358本の銅剣についても42本が、また銅矛も16本が展示されています。これも実用の武器というよりは祭器かも知れません。武器なら隠すよりも、それで戦うはずでしょう。まさに百聞は一見にしかずです。それぞれの発見時の現場記録を見ると、2世紀後半かと思われる当時の状況もいろいろと想像できるのです。とくに荒神谷の現場の写真は凄い。銅剣を1本1本互い違いに並べて丁寧に埋めてありました。これはかなり時間的に余裕があっての隠匿作業だったものでしょう。銅鐸の現場でも同じです。それも祭器として各地に配分する前のものとは考えにくい。たぶん各地に与えたものを、何らかの事態で再度ここに集めて一括して隠匿したように見えました。文化の異なる占領軍の進駐に備えて、自分たちの部族の象徴である祭器を保全するために埋めたとすれば、容易に理解できることです。その出雲族を降した相手は一体誰だったのでしょうか。
それが神話にある天孫族への国譲りであったなら、その戦いが数度に渡ったことの時間経過ともよく符合します。しかし遺跡の年代が2世紀後半ですから、魏志倭人伝にある倭国の大乱の頃です。卑弥呼より一世代古いのです。「研究最前戦(邪馬台国)いま何がどこまで言えるのか—朝日選書2011年6月刊」によると、記紀の選者は、魏志倭人伝を知っていたのに、卑弥呼を大和王朝の祖とは見ていないのだそうです。それにこの「邪馬台国」の研究者たちは、「出雲」には全く触れていません。いよいよ話が混乱してきました。 卑弥呼以前の時代については、もっぱら魏志倭人伝に頼る文献史学者と、最近の考古学の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡、奈良の纏向遺跡などのの発掘成果とは、まだうまくつながっていないようです。古事記上代の巻の3分の2を占める出雲神話は、一体どのような意味を伝えようとしているのでしょうか。この出雲展は深い謎に満ちていました。「了」