出雲王朝のこと 2012年9月3日 吉澤有介

    今年は古事記が出てから1300年になるそうです。大和王朝の物語ですが、その王朝が今も続いているとは、これはもう世界に類がありません。古事記成立の事情は、藤原不比等による大和王朝、それも祖母(持統天皇)から孫(軽王子文武天皇)への王権継承の正当化を意図したものであったといわれています。しかしその神話にある、天孫民族が九州から東征して、中つ国にいた出雲族を追放して大和王朝を立てたという経緯は、多分かなりの真実を述べたものでしょう。

 私は以前から、この消えた出雲族とその王朝に興味がありました。出雲族については、敗者の常として史書にはほとんど登場しません。最近の古代史ブームでも、どうもすっきりした解明には至っていないようです。しかし壮大な出雲大社や、出雲風土記、それに近年発掘された多くの遺跡などからみれば、きっと隠された深い歴史があるに違いありません。これはかの邪馬台国にも匹敵する大きな謎で、しかもその双方にも関連があるはずなのです。そんなことから一般向けの本をいくつか齧ってきましたが、今のところ一番納得できたのは、やはり司馬遼太郎の出雲族についての二つのエッセイでした。

 その「歴史のなかの邂逅」(中央公論新社2007年4月)に「生きている出雲王朝」と「ああ出雲族」があります。ここには著者自身の現地探訪と、職場でたまたま同僚であった人の、出雲大社の社家を継ぐ語り部の話が出てくるのです。出雲大社の国造が、連綿と続いていることは知っていましたが、語り部が生きていたとは驚きました。しかもそれが一子相伝で、門外不出、公表してはいけないと厳しくいましめられているというのですから、これはただごとではありません。神代が今に生きていたのです。作家の想像力をおおいに刺激したことでしょう。

 司馬遼太郎によると、出雲族はもと黒竜江のあたりにいたツングース族が、鉄器を持って間宮海峡から樺太に渡り、北海道から日本海沿いに南下して、出雲に移動して強大な王朝を立てたという説があります。紀元前1800年から千年くらいの間のことのようです。縄文末期のことでしょうか。中つ国も征服して、その何代目かの王が大国主命であった。そこへ天孫族の使者がきて強引に国を譲れと迫りました。出雲族のうち長髄彦など頑強に抵抗したものもいましたが、結局降伏して国を譲った。条件としては出雲王は永久に天孫族の政治にタッチしないということでした。

 王族は大和の三輪山の近くに幽閉され、出雲の本国には占領軍として、天穂日命(あめのほのひのみこと)が派遣されました。しかし彼は現地の出雲族にまるめこめられてしまったようです。人々はやはり大国主命を慕うばかりで、うまく統治できませんでした。そこで天孫族の高天原政権は局面打開のため、ついに大国主命を殺して出雲大社に神として祀り、天穂日命を出雲大社の斉主になるよう命じて、大国主命の代行者にすることで出雲族を慰撫しました。その家が国造として現代まで続いて、天皇家と並ぶ日本最古の家系となっているのです。当初の出雲大社は、現在の数倍の高さ32丈という巨大な建造物だったことが確認されています。天孫族の高天原政権は、よほど気を使ったのでしょう。いくつかある社家も天孫族の末裔ですが、一つだけ出雲族の家があり、それが司馬遼太郎の同僚の語り部W氏だったのです。ご先祖はまぎれもなく大国主命でした。

 また出雲族の女性は、魅力的で古来有名なのだそうです。天穂日命の占領軍は、彼女らにすっかり誘惑されてしまいました。後の京都の公家たちも、多くの出雲女性を愛しています。京美人のルーツになりました。出雲のお国もその一人でしょう。やはりツングース系だったのですね。隣の石見とは、顔立ちも気風も全く違うといいます。先日訪れた糸魚川のヒスイの里には、姫川の名のもとになったヌナカワヒメと大国主命の恋の伝説がありました。司馬遼太郎には、出雲へのロマンをもっと書いて欲しかったのに、まことに残念なことです。

 ところで出雲は、古くからタタラ製鉄が盛んでした。斐ノ川の砂鉄とりは、ヤマタノオロチ伝説になっています。そのタタラ製鉄の技術を解明し、現代に再現したのが、東工大金属工学の永田和宏教授です。NHKテレビにも何回か紹介されましたが、タタラ製鉄は現代の技術からみても極めて高いレベルにあるのだそうです。アニメ「もののけ姫」の監修もしています。永田さんは東工大山岳部顧問でしたので、熱心にOB会のお世話をして頂き、私もよくスキーでご一緒しました。定年後は、東京芸大の教授になっています。意外なところにご縁がありました。嬉しい限りです。「了」

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