「食べることをどう考えるのか」橋本直樹著 2018年12月20日 吉澤有介

—現代を生きる食の倫理— 筑摩書房 2018年1月刊

著者は、京都大学農学部農芸化学科卒の農学博士。キリンビール(株)の開発科学研究所長、工場長を経て、常務取締役で退任し、現在は帝京平成大学教授として、その豊富な現場経験をもとに、食の社会学、食べる思想の研究に真正面から取り組んでいます。

人類は、火を使って料理をすることを覚えて進化しました。火は、夜の寒さをしのぎ、危険な動物から身を守るだけでなく、調理によって硬いものを柔らかくして、咀嚼、消化、吸収に要するエネルギーを減らし、その余裕で脳により多くのエネルギーを供給したのです。

初期人類の脳が大きく発達した時期は、火を使って調理を始めた時期と一致していました。

火で調理をすることは人類の社会性を大きく発達させました。焚火を囲んで集団で煮炊きして、獲物を分け合い、食事を共にすることで、人々の親睦を深め、複雑な言語能力を高め、共同体の形成へと進化したのです。男女の分業が始まり、家族が生まれました。

農耕と牧畜も、人類が食物を求めて移動するうちに獲得した知恵でした。野生の植物や動物を選抜して、改良を重ねたのです。農耕するか牧畜をするかは、その地域の自然条件によりました。同じ農業でもヨーロッパは、自然の恵みの豊かな日本とは、全く違うものでした。緯度が高く、冷涼で降雨量が少ないので、収穫は9世紀で播種量の2倍、14世紀でも4倍がやっとで多数の人間は養えず、耕地の半分を牧草地にして牧畜と併用しました。小麦もパンもムラの仲間とつくるので、強固な共同体意識が生まれ、牧畜での人間が動物は違うとする人間中心主義は、人間と人間を区別する差別の論理となり、階級意識を生むことになりました。日本では稲作で、先祖伝来の水田を守り続けることで、土地や国土に対する深い愛着が生まれましたが、西欧では食をすべて社会共同体に頼ることから、土地よりも民族が主となり、人種意識に結び着きました。その連帯感のもっとも強烈な例がユダヤ民族でした。

牧畜では、家畜を殺して食べることには、全く抵抗感がないのに、肉食には際立ったタブーがあります。ヒンズー教徒は、農耕に最も役立つ牛を、聖なるものとして宗教儀礼で食べることを厳しく律しました。イスラム教徒とユダヤは豚肉を食べません。食肉として最も効率の良い家畜ですが、中近東の荒涼とした乾燥地には、違う論理がありました。豚は反芻しないので、草は食べられず、人間と同じ穀物を食べる上に、暑さにも弱いので水を求めます。一方、人間の食べられない草を食べる牛や羊などの反芻動物なら、食べてもよいとなったのです。欧米人が馬肉を食べないのも、実際的な理由がありました。馬は反芻しないので、牛やヤギよりははるかに多量の草を食べます。それでも闘いや運搬に有用なので、大切にして食用にはしなかったのです。日本人も仏教の影響で近世になって禁忌とはなりましたが、それは表向きのことでした。ただ身近に暮らす家畜は、家族同様に接していたので、殺して食べることはできなかったのです。茶の湯の精神、安藤昌益の思想も日本独自の文化でした。
 人間が食べることは、長く続いた飢餓の時代、節食、禁欲の時代、美食願望の時代から、飽食の現代まで、歴史的に価値観の変遷がありました。本書では、神人供食に始まる「食の思想」を未来まで深く考察して、今後の世界の食の課題について厳しく警告しています。「了」

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