山口恒夫監修、技術評論社、平成20年2月刊
地球上で最も繁栄している動物は昆虫です。節足動物である昆虫の進化の道は、私たち脊椎動物とは大きく異なっていました。脊椎動物への進化は、大型で長命な動物を目指す流れでしたが、節足動物への進化は小型で短命な動物を目指す流れといえるでしょう。それはそれぞれの「脳」においても、「巨大脳」と「微小脳」という、大きな違いになってゆきました。本書では、昆虫の脳についての第一線の研究者たちが、最新の知見を解説しています。
「虫の脳」と「ヒトの脳」では、その構造や情報を伝える仕組みは同じです。両者の違いは、ニューロンの数の差によるネットワークの作り方にありました。ヒトの脳には1000億ものニューロンがありますが、昆虫の微小脳では多くても100万ほどです。ヒトの脳の10万分の1しかないので、体の各部の情報をすべて脳に集めることはできません。そこで各部の神経節であらかじめ情報の処理をして、特に必要な情報だけを頭部にある脳に伝えることにしました。ヒトの脳を中央集権型とすれば、昆虫の脳は地方分権型です。昆虫の脳の中枢にはキノコ体というニューロパイル(神経叢)があって、複眼からの視覚や匂いなどの感覚情報や運動出力を統合する回路があり、学習と記憶の形成、行動指令の準備や選択、調整をしています。また脳の中央部には中心複合体があって、体のバランスをとり、太陽コンパスの働きもしていることがわかりました。バッタやハエ、アメンボなど昆虫の種ごとに詳しく報告されています。微小脳の基本原理は、ヒトの脳を理解する手がかりにもなるのです。
昆虫の胸部には2対の翅と3対の脚があります。さらに腹部には交尾器や、尾葉と呼ばれる空気流の情報を捉える感覚器があります。まず胸部の神経節ですが、実験として頭部と腹部を切り離して胸部だけにしてみると、なんと驚くことに昆虫はこの胸部だけでも正常に羽ばたくのです。胸部神経節にある神経回路が、中枢パターン発生器になっていました。この中枢パターン発生器は、哺乳類の歩行、魚の遊泳などにもあって、リズムの調整や運動の制御を行っていることが明らかになっています。またコオロギやゴキブリの腹部神経節にある尾葉は、捕食者のカエルなどが近づくと、わずかな風の動きを感知して、逃避行動を引き起こします。このように体節ごとに独立した機能を持つ神経系を分散脳といいます。
昆虫の歩行をつくる神経回路を見てみましょう。アリは6本脚で自由に歩き回ります。体の左右に3本ずつある脚を、一方の中脚と反対側の前脚と後脚が接地し、この組み合わせがステップごとに切り替わって、常に3脚で体を支えて歩行しています。その神経回路は胸部神経節にあって、中枢パターン発生器がリズムを作っていました。脳は開始や終了を指示するだけなのです。この3脚歩行そのままのロボットが作られ、その優秀さが証明されました。昆虫の匂い源探索行動の神経回路も、実際のロボットに活用されています。
昆虫の学習能力も驚くべきものでした。ミツバチは匂いを一度で覚え、それは一生涯保たれます。8の字ダンスなど、その超脳の研究が進んでいます。多くの昆虫は変態しますが、幼虫から成虫へのステップで、中枢神経はリストラされ、ニューロンも入れ替わります。
ヒトと昆虫には多くの共通点があり、昆虫には人間を知る大きなヒントがありました。「了」