JR中央線の高尾駅北口から歩いて10分ほどのところに、森林総合研究所の多摩森林科学園があります。そのサクラの保存林が素晴らしいと聞いて出かけてみました。場所は多摩御陵のすぐ裏手で、農林省のサクラ対策事業の一環として1966年につくられたのだそうです。江戸時代から伝わる栽培品種や、各地の多数の名木のクローンを集めて保存しているので、貴重な研究資料にもなっています。咲く時期は、品種によって2月から5月上旬まで順次に見頃となるそうですが、やはり今頃が最高でしょう。おおぜいの老老?男女と一緒に入園料400円で入って遊歩道を進むと、芽吹きの始まったばかりの自然林の奥が見渡す限りお目当てのサクラの保存林でした。全国から集めたとあって、それはそれは見事なものです。
一方通行の順路に沿っていろいろなサクラが次々に迎えてくれました。それぞれに名札がついています。京都祇園の妓女サクラや衣通姫などの優雅な名前もありました。7haの広い園内は人影もすぐまばらになって、もう野鳥のさえずりが聞こえるだけです。
ところでこのようなサクラの林に包まれると、いつも一種異様な気分になるのは私だけでしょうか。なぜか郷里の先輩である坂口安吾の短編「桜の森の満開の下」の怖い世界を思い出してしまうのです。満開のサクラには人を酔わせる不思議な魔力が潜んでいるのでしょう。林床にはタチツボスミレが咲き乱れ、マムシグサも顔を出していました。
ゆるやかな遊歩道を登り下りして園内を一巡すると、だいたい1時間半といったところです。高齢者にはちょうど手ごろなコースでした。入り口の正面にある多摩森林科学館には、サクラや樹木などの資料に、森に棲む動物たちについての展示もあって、このサクラ保存林は半日のお遊びに好適ですが、一般にはあまり知られていないようです。これからでもお出かけになってはいかがでしょうか。
出口で時計を見るとまだ12時半でした。せっかく高尾まで来てこのまま帰るのももったいない。お天気もよいので、久しぶりに高尾山に行ってみよう。午後からトレッキングというのもあって良いでしょう。高尾駅から登山口まで京王線でひと駅です。
ケーブルは下りにとっておくことにして、琵琶滝のある沢沿いの6号路に入りました。ここは変化があって山も深い、私の最もお気に入りのコースです。時差トレッキングですから人は誰もいません。ニリンソウが盛りの沢筋は、もう新緑がいっぱいでした。自然林の中ではスギの古木が次々に現れます。計測してみたら幹の直径は1m近くもありました。天然スギでしょうか。樹齢はたぶん4~5百年にはなるでしょう。このコースは琵琶沢の奥深く、最後の水源までつめて一気に標高599mの頂上に出ます。サクラ保存林とハシゴしたせいもありましたが、今年初めての山とあって足は重く、1時間半はたっぷりかかってしまいました。
頂上の広場はテレビでもおなじみの風景でした。白人の家族連れや山ガールたち、クラブツーリズムの団体さんまでいて、いま登ってきたばかりの6号路とはうって変わった賑やかさです。これもギネスブックのせいなのでしょう。ただ残念ながら見晴台からの山々は、雲に囲まれて富士山は見えません。周りの木々はまだ冬の姿のままでした。
帰りはケーブルとしても、このまま舗装された人ごみの1号路を下るのは芸がありません。南斜面をゆるやかに巡る3号路に入ることにしました。ここは豊かな常緑樹と広葉樹の混じった、高尾山でいちばん深山の気分を味わえるコースです。
ウグイスの声を聞きながらの森林浴は、まことに贅沢な時間でした。時折木々の間から展望も開けます。こんな素晴らしい山道をなぜ誰も歩かないのでしょうか。やがてメインの1号路に合流して、賑やかなケーブル駅に着いたのはちょうど4時でした。下りで足を痛めることもなく、のんびり帰れるのもありがたい話です。久方ぶりの高尾山でしたが、わき道の自然は昔のままでした。さすが世界が認めた御山です。
しかし多くの人びとはそのごく一部しか見ていないようです。麓から登る琵琶滝の6号路と、尾根伝いの稲荷山コースだけはややハードですが、ケーブルで上がって3号路から頂上に、さらに北側の4号路を廻ってケーブルに戻るコースがおすすめです。高低差はせいぜい100mくらいですから、どなたでもゆっくりと高尾山の自然を満喫できることでしょう。この季節のサクラ保存林と高尾山のトレッキングは、我ながら絶妙の組み合わせで、何か大きくトクをしたような気分になりました。「了」